朝鮮の鉄と侵略

 邪馬台国時代(三世紀)の『鉄』の供給元を、朝鮮半島南部の弁辰とした場合の、行路と輸送方法を考察しています。

 前回は、邪馬台国・高志から投馬国・但馬への陸路、および、投馬国からは小型船団による海路の可能性を指摘しました。

 対馬海流とは逆方向の行路となるので、巨大な準構造船は役に立たず、小型の準構造船の船団を組んでいました。これは、袴狭遺跡の線刻画からも証明されています。

 今回は、投馬国から北部九州、さらには朝鮮半島の弁辰(任那)への航路と、鉄の交易後の輸送方法や帰還ルートについて、考察します。

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小型船団で朝鮮へ

 前回示しました通り、投馬国・但馬からは、小型船団の地乗り航法で、不弥国に向かいます。そして、この北部九州地域から玄界灘を渡って、朝鮮半島南部に辿り着きます。

 ここで、鉄を入手する為の、いくつかの可能性があります。

鉄と侵略2
朝鮮と九州で鉄を仕入れる可能性

まず、

1.玄界灘を渡って、弁辰の製鉄所で作られた『鉄』を入手するケースです。

 投馬国からの船団で、そのまま玄界灘を渡り、鉄を入手します。

次に、

2.弁辰や新羅で加工された鉄器を入手するケースです。

そして、

3.玄界灘を渡らずに、九州で加工された鉄器を入手するケースです。

 九州北部は朝鮮半島南部との繋がりが深いので、頻繁に交流しています。高志の国からの使者が、わざわざ玄界灘を渡らずとも、北部九州で調達できたかも知れません。

 いずれも、可能性としては考えられます。

 一見、九州で加工品を入手するのが得策のように思えますが、それは早計です。

 鉄器や鍛冶技術の伝来が早かった九州ですが、青銅器への固執が強く、道具としての鉄の普及に遅れていました。

 一方、高志の国は、青銅器文化がほとんど無く、一気に鉄器文化に移行しています。鉄の加工技術も、林藤島遺跡の玉作り鉄工具のように、自家生産しています。

また、弥生時代末期の鉄器の出土数でも、邪馬台国や投馬国の方が、九州を上回っています。

 その状況を考えれば、高志の国・邪馬台国が、九州や弁辰から鉄器を輸入したというよりも、朝鮮半島南部の弁辰から直接「鉄」を輸入し、越前の地で鉄器に加工したと考える方が自然でしょう。

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朝鮮からの帰還ルート

 次に、弁辰で「鉄」を積み込んだ後の、帰りのルートです。これは、とても単純です。玄界灘を渡ることなく対馬海流に乗って、素直に東へ向かえば良いだけの事です。この場合、船は大型の準構造船です。船底に数百キロの重りを載せないと安定しない船ですので、仕入れた鉄を重りにすればよいだけの事です。また動力は潮流ですので、人力も風力も、ほとんど必要ありません。

 これは、北部九州へ渡る短い距離よりも、簡単だったと思えます。それは玄界灘の対馬海流は高速に流れているので、潮流依存の大型の準構造船で渡るには非常に危険です。それよりも、対馬海流に素直に流されて越前海岸にぶつかる方が遥かに容易だったのではないでしょうか。

 なお、大型の準構造船は、弁辰で作らせればよいだけの事です。この地は、倭国の植民地でしたので。

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三韓征伐は倭寇か?

 弁辰の鉄は、魏志東夷伝に記されていますが、記紀に記されている「三韓征伐」の航路の可能性も考えられます。

 弁辰まで、小型の準構造船の船団を組んで到着しましたが、そのまま北上するのです。その場合も、リマン海流に逆らいますので、小型船による地乗り航法となります。

 小型船とはいえ大船団ですので、神功皇后の海軍が朝鮮半島東岸諸国を侵略しまくったのかも知れません。高句麗の好太王碑に記された「倭寇」だった可能性は、十分にあります。

 今回の朝鮮半島南部・弁辰からの「鉄」の調達航路を推察するのに付随して、北部九州との関係も浮かび上がります。高志の国が、「なぜ九州を支配下に置いたか?」という点で筋が通ってきます。鉄の航路だけでなく、北部九州を弁辰(任那)と同じ植民地とする利点です。

 長距離輸送を船に頼っていた時代において、租庸調の運搬は巨大な準構造船でした。

対馬海流の上流域を植民地とする事は、下流域への輸送が容易となるのは自明の理だからです。

 次回は、邪馬台国時代よりも前の紀元一世紀以前の、高句麗と高志の国との関わりを、四隅突出型墳丘墓から推察します。