卑弥呼の墓⑨ 魏の贈り物

 卑弥呼の墓を発掘した場合、豪華な副葬品は盗掘などによって既に消失している可能性を、前回の動画で指摘しました。お墓の場所を断定して、せっかく発掘調査にまで漕ぎつけたところで、何も出土しない確率の方が高いのです。但し、出土する確率はゼロではありません。

 今回は、卑弥呼の遺物が現存している場合、どういう副葬品の出土が期待できるかを考察します。まずは、魏志倭人伝にある魏からの下賜品からの推測です。

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期待される副葬品

 卑弥呼の墓・丸山古墳を発掘調査した場合に、出土が期待できる遺物を、次の観点から考察します。

・魏志倭人伝に記されている下賜品

・丸山古墳の近くにある弥生時代の墳丘墓から出土した副葬品

今回は、魏から女王国へ下賜された品々をあらためて精査する事から始めます。

その中には、興味深い事実も浮かび上がりました。

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魏からの返礼は豪華

 弥生時代末期、邪馬台国の時代に倭の女王国・卑弥呼は、魏への朝貢を行いました。

しかし、貢ぎ物の内容はとてもお粗末でした。

 「男生口四人。女生口六人。斑布二匹。」

生口とは、人財の事です。また、匹は二反の長さ、約20メートルです。

つまり、男四人、女六人と、麻布と思われる織物を40メートル分、朝貢した事になります。

  それに対する魏の皇帝は、とても寛大で多くの労いの言葉を掛けた上で、次のような超豪華なプレゼントを倭国の使者へ下賜しました。

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下賜品

 金印紫綬

 銀印青綬

 

 絳地交龍錦五匹(こうじこうりゅうきん)(真っ赤な布地に竜が交差した錦)

 絳地縐粟罽十張(こうちすうぞくけい)(ちぢみの粟模様のある毛織の敷物)

 蒨絳五十匹(せんこう)(深紅色のつむぎ)

 紺青五十匹(こんじょう)(濃い群青色の織物)

 紺地句文錦三匹(こんじこうもんきん)(紺色のカギ模様のついた錦)

 細班華罽五張(さいはんかけい)(細かい花模様をまだらにあしらった毛織物)

 白絹五十匹 (加工のされていない絹織物)

 

 金八両

 五尺刀二口

 銅鏡百枚

 眞珠・鉛丹各五十斤

です。

 この中で、金の印鑑、銀の印鑑、そして銅鏡100枚をもらった事は有名ですが、プレゼントのほとんどは、豪華な繊維製品でした。そのほかにも、金貨、太刀、宝飾品、赤色顔料、など当時の日本では有り得ない豪華な品々もプレゼントされています。

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織物は秀逸

 絹織物や毛織物などの織物類は秀逸です。絹織物に金糸・銀糸や色糸を織り込んだ、煌びやかな模様の錦をはじめ、様々な着色や刺繍が施された毛織物や絹織物が下賜されています。

 卑弥呼は女性ですので、このようなプレゼントは最も喜んだのではないか、と推測します。

このイラストのように、魏から下賜された布地を使って、超豪華な着物を作った事が想像されます。

 卑弥呼の墓に埋葬されたお宝があるとすれば、印鑑や鉄剣、銅鏡などという威信財よりも、まずはこのような贅沢な着物類が卑弥呼と共に眠っているのではないでしょうか。

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九州の絹は粗悪

 なお当時の日本では、絹は北部九州でのみ生産されてはいたものの、その品質は悪く、実用的ではありませんでした。その為、日本列島全域への広がりはありませんでした。

 この魏からの下賜品によって、倭国における絹の技術レベルがとても低い事を思い知らされた事でしょう。そしてこれを機に、生産技術が大いに向上し、古墳時代になってようやく日本全国に広がって行くことになります。

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金印は無い

 邪馬台国の場所の比定地論争では、魏から下賜された「親魏倭王」の金印が出土する場所こそが邪馬台国である、とする説があります。しかしながら、これはいささか疑問です。

なぜならば、魏志倭人伝には、この金印を朝鮮半島・帯方郡の太守に預けたとあります。必ずしも、卑弥呼の手元にまで渡っていない可能性があるのです。

 卑弥呼の墓に副葬されているとすれば、金の印鑑よりもむしろ、銀の印鑑の方が有力に思えます。

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銅鏡は最高の一枚

 また、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚は、各地の豪族に配られた可能性があります。女王国は諸国連合ですので、それらの国々の支配者の女王への忠誠心を高める為に、配布されたのではないでしょうか。女王の都である邪馬台国にすべて存在するとは思えません。

 特に銅鏡100枚は、配布用でしょう。日本海沿岸各地で出土している紀年銘鏡がそれに当たります。これは、以前の動画、「魏の年号入り銅鏡 女王國の中にある」にて考察していますので、ご参照下さい。

 卑弥呼の墓に副葬されているとすれば、最高級の紀年銘鏡が一枚だけかも知れません。

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赤色顔料は証拠

 魏から下賜された品々の中に、興味深いものがありました。

眞珠・鉛丹とよばれる赤色の顔料です。真珠は現代でいう宝石のパールの事ではなく、朱の事です。一般に「丹」と呼ばれている赤色の顔料で、成分は硫化水銀です。また鉛丹は、四塩化三鉛という物質で、成分は異なりますが同じように赤色の顔料です。

 ちなみに、日本での最古の鉛丹は、邪馬台国よりも400年も後の飛鳥時代です。法隆寺に使われたのが、最初とされています。それ以前は、硫化水銀の真朱や第二酸化鉄のベンガラが使われていました。

 弥生時代の赤色顔料は、土器の表面に塗ったり、埋葬する棺の中の遺体に振りかけられたりしています。

 もし、この真珠や鉛丹が卑弥呼の手元に渡り、卑弥呼の棺の中に振りかけられていたとすれば・・・。

また、丸山古墳から出土した祭祀用器台には赤色顔料が塗られていますが、それが中国産の眞朱や鉛丹だとすれば・・・。

 この場所が卑弥呼の墓である事の、完全なる証明になりますので、最初に行うべきは、この成分検査でしょう。

 発掘調査を行った場合には、この赤色顔料は確実に出土します。卑弥呼の遺体の周りに、必ず中国産の眞朱や鉛丹が振り掛けられている事でしょう。

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魏からの下賜品で出土するもの

 これらのように、魏志倭人伝に記された下賜品の中から、卑弥呼の墓に副葬されたと考えられる宝物は、次のようになります。

・絹織物、毛織物などの着物類

・銀の印鑑

・最高級の紀年銘鏡

・中国産の赤色顔料

 卑弥呼の墓から出土するであろう宝物は、魏からの下賜品に限りません。邪馬台国のシンボルともいえる宝石類は、大量に出土する事でしょう。なんと言っても、その時代の鉄器出土数日本一である林藤島遺跡は、玉造りが行われていた集落遺跡ですので、翡翠、碧玉、ガラス玉などの宝石類はこの地で生産されていました。

次回は、卑弥呼の墓・丸山古墳の周辺地域にある弥生遺跡や墳丘墓から出土した宝物に焦点を当てて、考察して行きます。