邪馬台国時代 水田作るの難しい~

 前回の動画では、水田稲作の様々な優位性を示しました。一言に要約すれば、「究極の高効率農業」となります。

しかしながら、良い面があれば悪い面もあります。例えば、田圃を作る手間は、畑を作る手間の何倍も何十倍も掛かること、などです。現代でこそ重機を使って簡単に解決できる問題ですが、大昔ではそういう訳には行きませんでした。それゆえに、古代日本の超大国は「天然の」水田適地があった場所となるのです。

 今回は、水田稲作の欠点に焦点を絞ります。

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苦労がいっぱい

 麦類や豆類といった畑で作られる穀物と比べて、水田稲作による米は、遥かに優秀です。しかしながら、それをしっかりと栽培するまでには、畑作物とは比べ物にならない労働力が必要ですし、自然条件も限られています。

 水田稲作の最大の問題は、「田圃の整備」です。現代でこそ、日本列島のどこへ行っても、当たり前のように田圃の風景が見られますが、それは先祖代々、少しずつ開拓・開墾して作り上げてきた努力の結晶です。畑作栽培ではありえない苦労が田圃には隠されています。

 そして水田稲作のセンシティブな問題として、「土壌の質」や、「水の欠乏」があります。畑作栽培にも共通する事ですが、水田ではさらに重要な問題です。

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田圃の整備

 まず、田圃の整備です。当然ながら、水を張った際に隅々まで均等な高さになるように、真っ平らな地面にしなければなりません。大昔の時代おいて、そこに至るまでには大変な苦労があったはずです。

 例えば雑木林の開墾ですが、まず大量の木々を伐採し、根を掘り起こし、農地を平らに整地し、畔を造ります。そして、川から水を引いてきます。

弥生時代であれば、重機はもちろんの事、牛や馬もいませんでした。すべて人力です。しかも、鉄器など道具類は雀の涙ほどしかありませんでした。これだけでも弥生時代には、人工的に田圃を作っていたとは考えられません。天然の水田適地にだけ、水田稲作が行われていたと見るべきでしょう。

 日本では、五世紀後半頃にようやく牛や馬が伝来してきました。そして八世紀の奈良時代から、少しずつ水田の為の開拓・開墾が行われるようになりました。

 聖武天皇の時代に発令された墾田永年私財法あたりから人工的な水田が作られるようになり、貴族たちの荘園が各地に広がって行きました。日本列島全域に水田地帯が行き渡ったのは、15世紀の室町時代頃とされています。

16世紀には戦国時代に突入しますが、それは水田稲作の広がりによって全国各地の豪族たちの力が強まったのも、一因だったようです。

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土壌の質

 次に土壌の質です。これは水田稲作に限った事ではなく、作物ごとに適した土地はあります。水田稲作で、あってはならないのは、水はけの良い土壌です。せっかく水を張っても、水はけが良いと、水は地中に消えてしまいます。水はけの悪い土地である事が、古代においては絶対条件でした。扇状地のような砂やシルト質の土地では、土壌改良しない限りは無理です。現代でこそ、重機を使った大がかりな土壌改良が行われていますが、明治時代以前に水はけの良い土地での水田稲作は不可能でした。典型的な例が、福岡平野です。現代でこそ博多という大都会のある地域ですが、水田稲作には不向きな扇状地だったために、ほとんどが畑作農業でした。そのため、江戸時代までの人口は非常に少ない地域でした。博多の発展は近世になってからです。

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土壌の質2

 また土の種類でも、稲作に不向きなものがあります。リン酸分が欠乏する土には、稲は育ちません。

その土は、黒ボク土と呼ばれるものです。火山の影響が強い地域に見られます。これは、火山灰が降り積もった土地の上に生えた植物が、枯れて、黒色になった土です。黒土とも呼ばれる有機物の多い土ですので、畑作には最高ですが、稲作には最悪です。

 この土が多いのは、九州の中部から南部に掛けてです。現代でも、この地域が畑作中心である事からもお分かりになるでしょう。

 稲作に適しているのは、火山の影響ののない山々からの堆積物からできた、低地土と呼ばれる土です。

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水の欠乏

 次に、水の欠乏です。植物すべてに言えることですが、特に水稲の水欠乏は命取りです。田植えの時期から成育期間を通して、田圃に十分な水がはってなければ、水田稲作の利点の数々を生かす事は出来ません。前回の動画「邪馬台国には 水稲が必須」で述べましたように、単に水を張ってあるだけでなく、水の中には山々からの豊富な栄養分が含まれており、水で根本を覆う事で病害虫の発生も抑えられる、など様々な効力があるのです。

 もし水が無ければ、畑作栽培の稲、すなわち陸稲となってしまいますので、収穫効率は極端に落ち込んでしまいます。

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天然の水田適地

 これらのように、水田稲作には優位性があると同時に、大きな欠点もありました。

古代の技術力では、この欠点を乗り越える事は出来ませんでした。水田稲作を大規模に行えたのは、べったりと平坦で、水はけが悪く、雑木林になっていない地域でした。

 その典型が近畿地方です。日本列島には、九州の筑紫平野をはじめ、濃尾平野や関東平野という広大な沖積平野があります。その中で、なぜ近畿地方が日本の中心地になったのか、という疑問に対する答えがここにあるのです。

明らかに異なる点は、近畿地方には、弥生時代まで河内湖、奈良湖、巨椋池という巨大淡水湖があったことです。これらが干上がって、べったりと平坦で水はけの悪い天然の水田適地が出現したのです。これにより米の生産力が一気にあがり、爆発的な人口増加をもたらし、古墳時代という黄金期を迎える事になったのです。

 四世紀頃からの日本列島の中心地は、近畿地方だった事は自明です。では、その前の邪馬台国時代の中心地はどこだったのか。その答えは、近畿の古墳時代と同じように、巨大淡水湖が干上がった場所、という事になります。これが、私の説の基本です。

 日本は奈良時代以降、水田を全国各地に爆発的に広げ、「米」中心の国家が成立する事になります。「労力を惜しまず勤勉に水田を作れば、それ以上の見返りが待っている」という精神が、現代の日本人の心にも受け継がれているのでしょう。