神武東征に辻褄が合った!

 中南部九州シリーズの総集編、第二弾です。

この地域の弥生時代を俯瞰した中で、いくつかの新たな発見がありました。

今回は、神武東征は実話の可能性が高い事を示して行きます。

日向の国が神話に残る強力な勢力になったのは、ズバリ、馬です。馬の繁殖適地だった事が最も重要なポイントでした。

 中南部九州に関する古事記・日本書紀の記述の中で、最も大きな事件は日向の国・宮崎県で起こりました。高千穂での天孫降臨から、日向三代、そして神武天皇による近畿地方への東征です。

 天皇家の根幹をなすこれほどの大事件ですが、一般には、単なる神話と片付けられています。

 それは、まず年代です。日本書紀を信用するならば、縄文時代晩期から弥生時代初期に起きた事件となってしまいます。たとえこれを曲解して、弥生時代末期の邪馬台国の時代・すなわち三世紀頃の出来事としても、その頃の日向の国にはまだ、それだけの大事件を起こせるだけの国力、すなわち農業基盤があまりにも脆弱でした。とてもとても近畿地方への東征などできるはずのない勢力でした。また、考古学的にもこの地に強力な王族が存在していた事を示す弥生遺跡や出土品がほとんどありません。

 しかし今回、あらためて日向の国を再検証してみると、神武東征を神話で片付けてしまうには、あまりにも勿体ない事実が、この地には存在していたのです。

 神武東征の元ネタは、実は宮崎県の日向ではなくて、福岡県糸島市の日向ではないか? あるいはそのほかにも日本列島には日向と名の付く地名が幾つも残っているので、宮崎県と決めつける必要はなかろう! などと、様々な説が飛び交っていました。宮崎県の貧弱な弥生時代を考えれば、そういう説が飛び出しているのは当然です。

 ところがこれを、弥生時代ではなく古墳時代の出来事としてとらえれば、ものの見事にピタリと当てはまってしまいました。神武東征は日向の国・宮崎県から起こった事件である事は間違いありません。しかし時代は、弥生時代ではなく古墳時代です。では、この説に至った経緯を説明して行きます。

 日向の国には様々な謎がありました。

考古学的には、弥生時代には全くパッとしないものの、古墳時代に入ると突然元気になっています。西都原古墳群という九州最大規模の古墳群の出現がこれを物語っています。つまり古墳時代に入ってようやくこの地に強力な豪族が現れた事の証になります。しかしなぜ古墳時代から日向の国が強力になったのか? という答えがなかなか見つかりませんでした。水田不適地の日向の国になぜ?

 また、日向の国の古墳時代の出土品からは、日本最古の馬の骨や、最古級の馬具類がたくさん見つかっています。しかしなぜ日向の国から馬に関係する出土品が多いのか? という答えもなかなか見つかりませんでした。仮に、日向の国が強力な騎馬軍団だったとしても、馬が伝来したのは、北部九州からです。普通に考えれば北部九州が最初に馬に関わる出土品があってもおかしくないはず。ところが日向の国よりも遅い後の時代でした。なぜ、北部九州を飛び越えて日向が最初なのか? という疑問も残りました。

 このように、日向の国については、古墳時代に馬に関する顕著な出土品がありながら、なかなか神武東征という大事件との結びつきを見つけ出せずにいました。

 しかしこれらの疑問は、古代国家の基本に帰る事で糸口が見えて来ました。キーワードは「天然」という言葉です。

そもそも古代の超大国を考える上では、農業生産力に優れた自然条件を考察するのが基本中の基本です。日本列島の場合は、大規模な天然の水田適地を見つけ出す事です。しかし、日向の地にそれは当てはまりません。ところが別の素晴らしい自然条件が存在していたのです。それは、「天然の馬の繁殖適地」だという事です。

 これで、すべての辻褄が合いました。 

 馬の伝来は、弥生時代、あるいは古墳時代初期の四世紀頃には、北部九州において始まっていた事でしょう。ところがそこは、馬の繁殖に適さない場所でした。何度も何度も朝鮮半島から輸入しながら、なかなか繁殖できずに死に絶えて行ったのでした。もちろん朝鮮半島からは馬だけでなく、繁殖技術を持った馬飼職人も渡来していた事は、十分に考えられます。しかし彼らは、新羅の国という天然の繁殖適地でこそ活躍できた職人たちでしたので、草原が少なく、降水量の多い北部九州では、容易に馬の命を繋ぐ事は出来ませんでした。

 やがて時を経て、五世紀頃になってようやく天然の馬の繁殖適地が見つかりました。それこそが日向の国・宮崎県エリアだったのです。古墳時代になってからようやく、北部九州を跨いだ日向に一大勢力が起こった理由が、ここにあったのです。

 これを立証するように、日本最古の馬の遺骸が発見されたのは、五世紀の宮崎県・六野原地下式横穴墓群8号墓ですし、その近くに出現した広大な西都原古墳群からは、多くの馬具類が見つかっています。

 これはまさに、五世紀頃から日向の国・宮崎県で馬の繁殖が大いに進み、馬の力を利用した強大な勢力が出現したいた事を裏付けるものです。

 この古墳時代の日向の姿こそが、神武東征の元ネタであって、北部九州をまず征服し、瀬戸内海地域を次々に征服して行き、近畿地方へとやってきたという実話なのです。

 日向の国が、天然の馬の繁殖適地だった事で強力な勢力となった、というのはもちろん仮説に過ぎません。しかしこの仮説の根拠は、邪馬台国の場所を見つけ出す方法と、とてもよく似ています。水田稲作が伝来しただけでは、北部九州に人口爆発が起こりませんでした。それは、北部九州には大規模な水田適地が無かったからです。数百年の時を経て、ようやく広大な天然の水田適地が見つかりました。その場所こそが魏志倭人伝に七万余戸と記されている邪馬台国なのです。つまり、北部九州を跨いで、遠く離れた北陸地方・越前の地で人口爆発が起こり、超大国が出現したのです。

 中南部九州を詳しく調査してみて、一番の収穫だったのは日向の国が馬の繁殖適地だった事と、この地が古墳時代に強力な勢力になっていた事実です。これまで、天然の水田適地にだけ囚われていましたが、世界を見渡してもモンゴル帝国のように馬の力で巨大な国家となった事実があった事を、あらためて認識させられました。神武東征は事実です。但し、時代は古墳時代、六世紀頃と推測します。