外国人墓地? 末蘆国の支石墓

 末蘆国は玄界灘に面する北部九州ですので、博多湾沿岸地域と同じような弥生遺跡が見られます。ところが、ほかには見られない特徴的な石墓が多数存在しています。「支石墓」です。これは朝鮮半島全土でみられる形式ですので、古来より末蘆国は半島文化と直結していた事が窺われます。しかし、対馬海峡の距離や航海のし易さから言うと、博多湾沿岸も同じような支石墓があってもおかしくはありませんが、ほとんど発見されていません。

 今回は、末蘆国の弥生遺跡を調査すると同時に、支石墓がなぜこの地に集中したかについて考察します。

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末蘆国

 末蘆国の弥生遺跡は、五島列島を含めた松浦郡全域で見られます。主な遺跡を列挙します。

佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡(うきくんでんいせき)、桜馬場遺跡(さくらのばばいせき)、

伊万里市の午戻遺跡(うまもどしいせき)、銭亀古墳(ぜにがめこふん)、

長崎県平戸市の里田原遺跡(さとたばるいせき)

佐世保市の宮の本遺跡(みやのもといせき)

五島列島の野首遺跡(のくびいせき)

そして時代区分としては縄文時代となりますが、日本最古の水田遺構のある菜畑遺跡、などです。

唐津市周辺の遺跡には、王族の存在を窺わせる出土品があります。これは、伊都国と同じ文化圏だったからと推測されます。それは、背振山地という天然の城壁で遮断されているとは言え、同じ湾の中に位置していますので、船を使えば自由に行き来できたからです。魏志倭人伝に記されている中国などの使者たちには背振山地の獣道を歩かせ、自分たちは船を使って伊都国と緊密に連携を取り合っていたのでしょう。女王国の勢力がこの地を治めて、管理していた事は容易に想像できます。

 残念ながら末蘆国の弥生遺跡の全体的な傾向として、王族のお墓はあるものの、副葬品の内容では博多湾沿岸地域とは比べ物にならないほど陳腐です。どうしても辺境の地という印象はぬぐえませんので、ここでは出土品の詳細を控えることにします。

 この地域で特筆すべき遺跡としては、特殊なお墓があります。それは「支石墓」です。

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遺跡群

 支石墓は、石のお墓の一種で、基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に大きな天井石を載せる形態をとっています。

 世界的に存在した支石墓ですが、発見されたものの分布は、朝鮮半島がもっとも多く、四万基から六万基にも及んでいます。

末蘆国エリアには、朝鮮半島南部に広く分布するのと同じタイプの支石墓が発見されています。つまり、海を渡って九州にやって来た人々のお墓という事です。

 時代としては弥生時代の初期頃です。具体的な場所としては、

唐津松浦墳墓群、大野台支石墓群、風観岳支石墓群(ふうかんだけしせきぼぐん)、原山支石墓群、金立支石墓群(きんりゅうしせきぼぐん)、志登支石墓群(しとしせきぼぐん)

など、九州の北西部で多く見つかっています。

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北西部だけ

 この分布から北部九州の国々の弥生時代の役割が見えてきます。博多湾沿岸地域を始めとする東部地域ではほとんど支石墓は発見されていないにも関わらず、糸島半島から西の地域で多く発見されています。

 魏志倭人伝での地域区分では、奴国には支石墓は無く、伊都国や末蘆国に多く存在していた事になります。

 不思議な事に、朝鮮半島南部から北部九州へ渡って来る場合、博多湾へ着岸するのは難しくないばかりか、対馬海流の作用を考慮すれば、むしろ容易に着岸できます。それにも関わらず、なぜ東側の地域には支石墓がないのでしょうか。

 それは魏志倭人伝の記載にも通じる国家間の壁があったと推測できます。

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支石墓

 魏志倭人伝に記されている女王国に属する国は伊都国からであり、末蘆国は女王国には属していません。伊都国が女王国の入国管理局の役割を果たしています。背振山地という断崖絶壁の天然の城壁で仕切られて、末蘆国にのみ外国人が上陸出来る環境にあったという事です。リアス式海岸で農耕地が少なく、海産物だけで生業を立てていた地域ですので、女王国にとっては魅力のない地域、それが末蘆国です。そんな場所だからこそ、朝鮮半島の人々も自由に上陸する事が許されていたのではないでしょうか。

 支石墓の時代は、邪馬台国よりも数百年も前ですが、北部九州における末蘆国と女王国とのボーダーラインは明確で、それが連綿と続いていたと見る事ができるでしょう。つまり、支石墓は当時の外国人墓地と言えます。

 末蘆国の伊万里市近郊の腰岳という山からは、黒曜石が産出されます。石器時代から刃物として使用されていた石で、九州全域だけでなく朝鮮半島南部の遺跡からも発見されています。

支石墓という朝鮮半島からの人々の流入だけでなく、黒曜石という九州からの流出もあったようです。

 一方、隠岐の島(島根県)や男鹿半島(秋田県)の黒曜石はウラジオストクへも渡っており、日本海を反時計回りに大きく航海が行われていた事が分かっています。この事から北部九州での海洋交易は、朝鮮半島南部という局所的で短い距離に限定されていたと見ることができます。

 次回は海を渡り、一大国(壱岐島)に入ります。