虫のいい歴史書 鹿島神宮の宮司だった?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

 邪馬台国はなぜ日本の古文書に登場しないのでしょうか?

その理由は、奈良時代に大和朝廷の権力者となった藤原氏一族の思惑です。では、藤原氏(中臣氏)とはどういう氏族なのでしょうか? 自ら編纂に関わった日本書紀には、中臣氏のご先祖様はあまりにもショボいものです。圧倒的な権力者となった平安時代の藤原道長の時代にでも、書き換えようと思えばいくらでも書き換える事が出来たでしょうに?

 今回は、藤原氏の系譜をさらに具体的に調べて行きます。

 前回は、日本書紀に記されている藤原氏の系譜を示しました。これはあまりにもショボいもので、本当に当時の最高権力者のご先祖様か? と思えるほどのものです。

 彗星の如く現れた中臣鎌足から遡って、10代前の中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)まで行きつくのですが、なんの実績も個性もない輩ばかりです。中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)は、卑弥呼のモデルとされる神功皇后と同じ時代の人物なのですが、近畿地方にじっとしていただけで、何の武勇伝もありません。蘇我氏の先祖であり、古代史の英雄である武内宿祢とは、雲泥の差です。

 そして、中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)よりも前に遡る事は出来ませんので、いわば「どこの馬の骨とも分からない氏族」、それが藤原氏一族という事になってしまいます。

 なお、八百万の神々の一人である天児屋命(あめのこやねのみこと)が、中臣氏の祖神となっているのが唯一の救いです。この神様もまた、大した神様ではなく、天照大神の岩戸隠れの際に岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した。という程度の神様です。また、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴したとされていますので、地理的に日向の国・宮崎県と関係の深い神様という事になります。

  ちなみに日向の国といえば、宮崎県六野原地下式横穴墓群8号墓から出土した馬の骨が日本最古とされていますので、中臣氏は本当に馬の骨ですね?

 藤原氏自身、このようなショボい系譜に不満を持っていたかというと、そうでもなかったようです。奈良時代後期の西暦760年に自らの家系を記した「藤氏家伝」にも、日本書紀と同じような内容が記されています。

この藤氏家伝は、古代から藤原氏に代々伝えられてきた、藤原氏初期の歴史が記された伝記です。日本書紀や続日本紀には無い歴史が記述されてはいるものの、家柄については中臣鎌足や藤原不比等の功績を称える程度です。それよりも昔に遡ると、日本書紀と同じように、やはりどこの馬の骨とも分からないものです。

 仮に日本書紀の記述に不満があったとすれば、「藤氏家伝」において輝かしい家系図を示せば良いし、最高権力者に上り詰めた平安時代の藤原道長の時代に、日本書紀を書き換えたとしても、誰も文句は言えなかったでしょうに?

 これは、自らの血統に無頓着だったのか? あるいは、血統などは下賤のものの拘りとして超越していたのかも知れませんね? 自らは、天児屋命(あめのこやねのみこと)という神様が先祖という事で、天皇家と同じように、十分に差別化していた可能性もあります。

 このように、平民では到底理解できないショボい系譜しか持たない藤原氏に対して、疑問を持つ古代史研究家は多く、様々な仮説が提唱されています。特に多いのは、渡来人説です。

 歴史作家の関裕二氏は、百済からの渡来人であるとしています。この作家さんは、比較的私の考えに近い方です。藤原氏一族を徹底的に批判しているだけでなく、古代史の主役を日本海勢力、特に但馬・丹後・丹波地域という弥生時代の先進地域に主眼を置いています。しかし、論理の飛躍も多く、「ハテナ?」と感じる論調が多々見受けられます。

 藤原一族の百済渡来人説についても、あまり納得できるものではありませんでした。詳しくは、「藤原氏の正体」という書物で述べられていますので、ご参照下さい。

 藤原氏の先祖が渡来人だったというファンタジーではなく、真面目に史実に則った説では、鹿島神宮の宮司説があります。

 藤原氏のご先祖様が常陸の国・茨城県の鹿島神宮の宮司だった、という説は広く知られています。

これは平安時代後期に編纂された『大鏡』(おおかがみ)という歴史書によります。藤原道長が栄華を極めた平安時代の歴史物語で、その中に藤原氏の祖先が鹿島神宮の宮司だったという記述があるのです。

 この説は、『大鏡』(おおかがみ)という書物の中にだけではなく、実際に藤原氏が祀る奈良県の春日大社には、常磐の鹿島神宮と、下総の香取神宮の神が勧請されています。しかもこれらは、日本書紀に記された藤原氏の始祖である天児屋命(あめのこやねのみこと)よりも丁重に祀られているのです。

 これらをもって、藤原氏一族の先祖は関東地方からやって来た一族ではないのか? という説がかなり強く唱えられています。

 この鹿島神宮宮司説の致命的な欠陥は、時代乖離が甚だしい事です。

大鏡(おおかがみ)は、11世紀の書物です。藤原道長よりも100年以上も後ですし、中臣鎌足よりも400年以上も後に書かれた歴史書です。さらに、10代前の中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)よりも900年も後という事になります。このような時代乖離がある歴史書は、何らかの思惑があって書かれたと見る方が自然です。

 また、奈良県の春日大社に関東地方の鹿島神宮や香取神宮の神が祀られているというのも、やはり平安時代の政治的な思惑を感ぜずにはいられません。

 そもそも神社というものは、考古学的に飛鳥時代の六世紀後半あたりまでしか遡る事が出来ないものです。伊勢神宮しかり、宇佐神宮しかり、出雲大社しかりです。また、日本神話は記紀が記された八世紀に創作されたものです。この日本神話を元に、全国各地で様々な神社伝承が語られ始めました。それは、平安時代であったり、神社の格付けを気にし始めた江戸時代であったりと、かなり後の時代になってからです。

 鹿島神宮宮司説は、そんな神社伝承の一つに過ぎないでしょう。

 ではなぜ、藤原氏一族は鹿島神宮宮司説を容認するような態度をとっていたのでしょうか?

これは千数百年もの間、朝廷の最高地位に居座り続けた藤原氏の、真骨頂とも言える政治手腕だと考えます。

一言で言えば、「関東地方の勢力に忖度した」、という事です。

 平安時代中期に、藤原氏一族で最も輝きを見せていた道長の時代、そしてそれよりも少し前の時代に関東地方で起こった、平将門の乱。

これらが、藤原氏が鹿島神宮や香取神宮に忖度せざるを得なかった最大の理由であると考えます。詳細は、次回に持ち越します。

 いかがでしたか?

藤原氏一族が1200年にも渡って、大和朝廷の最重要ポストに居座り続ける事が出来たのには、理由があります。

常に時代を読んでいた。という事です。新しい勢力が出現すると、必ず娘を嫁がせて親戚関係を結ぶ。強力な勢力には忖度して、擦り寄って行く。現代の政界、財界、経済界でも、藤原氏と親戚関係を持っている輩は、多く存在しています。

今なお日本という国を、陰で操っている氏族、それが藤原氏なのです。