ヤマタノオロチと因幡の白兎

 因幡の国には、大きな国が存在できる農耕地はありません。しかしながら、青谷上寺地遺跡に見られる特徴的な弥生遺跡や、出雲神話があります。

 今回は、大国主命の「因幡の白兎」に焦点を当てて、その根拠となった事件を推測します。

 これは、ヤマタノオロチ伝説とも密接に繋がりのある神話だと考えられます。

 実際、記紀の中では「ヤマタノオロチ退治」の直後に「大国主命の国づくり」の話が始まっています。

 出雲を支配していたヤマタノオロチ・高志が撤退した実話を元に、「因幡の白兎」が作られたのではないでしょうか?

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ヤマタノオロチと因幡の関係

 古事記の中で、「高志之八俣遠呂智 年毎に来たり」で始まるヤマタノオロチ伝説。高志の国が出雲の国を植民地化して搾取していた様子が、怪物の姿を借りて描かれています。そして、越の軍勢を打ち破ったのが、高天原のスサノオノミコトです。これは、以前の動画「出雲は越の植民地だった」で説明していますので、ご参照下さい。

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大国主命の因幡への旅立ち

 その後、スサノオは出雲に定着し、多くの子供たち・八十神(やそがみ)を設けました。八十神はやがて、因幡へ旅に出かけます。その中の一人、というよりも一番下っ端だったのが大国主命です。

 因幡の白兎は、八十神が因幡のお姫様に求婚しに行った際に起こった事件です。

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因幡の白兎の事件

 因幡の白兎のストーリーの概略は次の通りです。

・八十神は、因幡の八上比売(やかみひめ)への求婚する旅に出かけました。

・一番下っ端の大国主命は、荷物持ちをさせられていました。

・「気多」という砂浜に来たとき、裸の兎が伏せて苦しんでいました。

・八十神は嘘の治療法を教え、兎を更に苦しませました。

・最後に現れた大国主命は、兎から事情を聞きました。それは、

 沖ノ島から海を渡るのに、サメを騙した事。最後に嘘がばれて裸に剥かれてしまった事。八十神によって更に酷い目に合わされた事などです。

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大国主命の成功

・大国主命は、正しい治療法を教え、兎は回復しました。

・兎は、八上比売(やかみひめ)を娶るのは大国主命だと断言しました。そして、現実の事となりました。

 この因幡の白兎の神話ですが、前段のヤマタノオロチ神話の流れと重ね合わせると、出雲・因幡・高志の勢力争いの世界と、非常に辻褄が合ってきます。

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因幡の白兎の元になる話

 まず、一般には「兎」が「サメ」を騙したとされていますが、古事記の中では、サメではなく、「和邇(わに)」と記されています。これの解釈は、呼び方の通り「鰐(わに)である」という説や、「鮫(さめ)である」という説、および「船である」という説があります。

 現実的に考えれば、鰐(わに)や鮫(さめ)が並んで、その上を兎が跳ねて海を渡る訳がありません。

 これは「船」でしょう。船の例えとして「和邇(わに)」と表現し、神話化したと思われます。実際、当時の小型の準構造船は、パックリと口を開けた鰐(わに)や鮫(さめ)に似た形をしています。

 また、投馬国・但馬の袴狭遺跡から出土した準構造船の船団の絵は、まさに鰐(わに)や鮫(さめ)が並んでいるようです。まさに、邪馬台国から来ていた軍隊の船団が、因幡の国で起こした事件が、この神話の元になっていると思われます。

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因幡と高志の関係

 また、白兎は因幡の、「か弱き民衆」の例えです。彼らは元々、邪馬台国・高志の植民地の住民でした。長年、邪馬台国に従順に付き従っていました。それにも関わらず、出雲での戦いで、高志が敗れたのを機に、手のひらを返して裏切ったのです。怒り狂ったヤマタノオロチ、すなわち高志の軍勢は、因幡の国を、身包みを剥ぐように略奪して、去って行ったのです。

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出雲と因幡の関係

 そこに現れたのが、出雲からの八十神です。彼らは、それまで高志の国に支配されていた因幡の領地を奪還するのに血眼になり、因幡の民衆の事など顧みませんでした。因幡を更に苦しめて、土地の略奪を行ったのです。

 これは、民度の低かった弥生時代では当然だったのでしょう。奪えるものは全て奪ってしまう弱肉強食の時代でしたから。

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大国主命の人心掌握

 ところが、そんな中で大国主命だけは違いました。傷ついた兎、すなわち因幡の民衆を大切に扱ったのです。そして八上比売(やかみひめ)を妻に迎える事に成功しました。

 すなわち、因幡の人心を掌握し、国を治める事に成功した訳です。

 「高志之八俣遠呂智」から連なる「因幡の白兎」。これは、邪馬台国・高志の国が、出雲の国から撤退し、それに代わって大国主命が領土を広げて行く様子を表しています。

 なお、大国主命は国づくりの旅を行いますが、邪馬台国(越前)と投馬国(但馬・丹後)には手出しが出来ませんでした。それは、因幡を治めた後に向かった先が、能登半島の羽咋だからです。但馬・丹後・若狭・越前・加賀には何もしていません。 国力の差は、そう簡単には埋められなかったという事でしょう。

 ちなみに、因幡で兎が苦しんでいた砂浜は「気多」、能登の一宮は、羽咋の「気多大社」です。