翡翠の生産

 弥生時代には、「中国・朝鮮との交易が盛んになった」と、邪馬台国論者は語ります。ところが、当時の中国は世界一の先進地域でしたので、金、銀、銅、鉄、絹、木製品、装飾品などは豊富にあり、日本のような後進国から輸入する必要はありませんでした。交易というよりも、中国から貧しい日本へ「恵んでやる」という交流だったようです。

 弥生時代末期の日本に、果たして輸出できるような物はあったのでしょうか?

 魏志倭人伝に記されている、日本から魏への朝貢品には、

 

一回目の西暦239年、卑弥呼が魏へ朝貢した品です。奴隷10人と、麻のような分厚い布だけでした。

 

・男生口四人・女生口六人(奴隷)

・斑布二匹二丈(麻のような分厚い布)

 

二回目の西暦243年、卑弥呼が魏へ朝貢した品です。奴隷・織物類・赤い顔料・弓矢類、でした。

 

・生口(奴隷)

・倭錦(倭の錦織)

・絳青(あかとあおのまじった絹織物)

・緜衣(綿いれ)

・帛布(しろぎぬ)

・丹(赤色顔料)

・木(もくふ:弓柄)

・短弓と矢

 

三回目の西暦266年、壱与が晋へ朝貢した品です。奴隷30人と、丸玉五千個、まが玉二枚、織物類、でした。

 

・男女生口三十人(奴隷)

・白珠五千孔(丸玉)

・青大句珠二枚(勾玉)

・異文雑錦二十匹(異国模様のある錦織)

 

 これらは、ほとんど中国国内で生産できた物です。朝貢外交は、貧しい周辺諸国からの粗末な貢物に対して、中国の皇帝が金・銀・財宝を下貢するのが慣例でしたので、不思議な事ではありません。

 

朝貢1
卑弥呼から魏への朝貢品は、お粗末だった。
朝貢2
二回目の朝貢も、お粗末だった。
朝貢3
三回目の朝貢で、翡翠を献上した。
翡翠5
翡翠の勾玉

 これらの中で、中国で生産できない物、日本でしか作れない物は、青大句珠二枚(勾玉)だけです。翡翠が原材料と思われます。

 

 翡翠は、中国・朝鮮では産出しない石です。

日本では、現在の新潟県糸魚川市姫川流域を中心として採掘されます。

 もし、倭国(邪馬台国)が中国や朝鮮と交易を行っていたとすれば、この翡翠が重要な役割を果たしたに違いありません。

 翡翠製の勾玉は、縄文時代から古墳時代まで、それを持つ人の権威付けや、他の豪族達に畏れを抱かせるという意義もありました。深緑の半透明な美しい色と、硬さから、中国では、金以上に珍重されたという説もあるほどです。これを上納した邪馬台国は、翡翠だけで、魏に一目置かれる存在になったのかも知れません。

翡翠1
翡翠の産地は、新潟県糸魚川市。

 これは弥生時代後期までの、姫川産翡翠の出土分布です。産出地近くに集中していますが、日本全国に広がっていた事が分かります。

特に、福井県・石川県・富山県・新潟県という高志(越)の国に集中していて、石器工具による加工場跡の遺跡も見つかっています。

 福井県三国町の下屋敷遺跡は、紀元前100年頃の遺跡で、銅鐸鋳型をはじめ、多量の玉作関係遺物、弥生土器、各種の石器類(大型石丁・太形蛤刃磨製石斧・扁平片刃磨製石斧など)も多く発見されています。

 また、工法も「碧玉製管玉の攻玉技法」という当時の先進技術を用いられていたようです。この工法を用いた工房は、この下屋敷遺跡と福井県敦賀市の吉河遺跡だけです。

 どうやら、玉作りを生業とする技能集団が越前に存在して、クニの首長のもとで組織的に作られていたのでしょう。

翡翠4
高志(越:北陸地方)と、全国に分布
翡翠6
翡翠の原石

翡翠2
加工地は、越前(福井県)にあった。

 魏の邪馬台国に対する扱いは、破格だったようです。ほかの周辺諸国からの朝貢に比べ、邪馬台国に下貢された品々や冠位は、かなり厚遇されていました。これは東夷伝の内容から察せられる事です。朝貢品の翡翠の勾玉が、最高の宝石と評価されたからではないでしょうか? 壱与の朝貢から記された翡翠の勾玉ですが、卑弥呼の朝貢の時も、献上していたのかも知れませんね。

 

 前回、「なぜ越前だったのか?(2)」の動画で、越前が弥生時代末期に超大国だった事実を示しました。

 今回、この動画:「なぜ越前だったのか?(3)」で、翡翠の生産・加工地だった事実を示しました。

 

 これらの事実だけをもって、越前が邪馬台国だっと結論付けるつもりはありません。