頓挫した計画都市 狗奴国の都 纏向遺跡

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの11回目。今回は基本にかえって、弥生遺跡で発見された出品からの考察を行います。まずは纏向遺跡です。日本一の面積規模を誇る弥生遺跡ですので、マスコミの注目度はダントツに高いですね? 些細な出土品が見つかっただけでも、「邪馬台国確定!」と新聞紙面に活字が踊っているのを見た方も多いのではないでしょうか? しかし発見された遺物の数々を冷静に眺めて行くと、大した物はありません。話題先行で、内容に乏しいのです。

 あらためて纏向遺跡について整理します。

奈良盆地の南東部、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にあります。大阪湾へと続く大和川の上流部にあたり、奈良盆地に流れ込む扇状地の上に存在します。弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡で、国の史跡に指定されています。

 遺跡の範囲は、JR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmに及び、楕円形の平面形状となっていて、面積は300ヘクタール(3平方キロメートル)に達します。弥生遺跡としては日本列島最大規模で、二番目に広い鳥取県の妻木晩田遺跡が170ヘクタールですので、約2倍の規模です。なお、佐賀県の吉野ケ里遺跡は36ヘクタールです。

 このような広い面積を誇る纏向遺跡ですが、もともとこの全域を一つの拠点集落として認定していたわけではありません。

 纒向遺跡は、1937年に「太田遺跡」として『大和志』に紹介されたのが最初です。現在の名称で呼ばれるまでは「太田遺跡」・「勝山遺跡」として学界に知られており、小規模な遺跡群の1つとして研究者には認識され、特に注目を集めていた訳ではありません。その後、この地域の開発計画が持ち上がり、1971年から橿原考古学研究所によって事前調査が行われることとなりました。その結果、幅5m、深さ1m、総延長200m以上の運河状の構造物が検出されたことから、注目を集めることとなりました。そこからは、吉備の楯築遺跡などで出土している特殊器台が出土しました。さらに、様々な遺構や出土品が広範囲にわたり確認されました。

 現在までに、100回を超える調査が行われていますが、まだ全体の5%程度の発掘に留まっています。

このように、広大な範囲を一つの拠点集落と定義したのには、広範囲に及ぶ人工的に作られた運河の存在が最も大きな要因です。もちろん、柵や砦で囲まれた都市の一部と見られる遺構も発見されていますが、その範囲をもって一つの遺跡と認定した訳ではありません。

 吉野ケ里遺跡などの他の有名な弥生集落では、城柵に囲まれた範囲をもって拠点集落としていますが、纏向遺跡は計画都市全域を集落と見なしています。

 纏向遺跡の年代推定は、一般的な土器の編年によります。

河内平野を起源に持つ庄内式土器や奈良盆地を起源に持つ布留式土器、さらに吉備の国の特殊器台などからの推定です。西暦2世紀の邪馬台国の時代から出現し、西暦4世紀の古墳時代前期には消滅したと見られ、とても短い期間しか存在していなかったようです。

 この遺跡の大きな特徴は、2点あります。一つは、広範囲に人工的な水路、すなわち運河が建設されている事。もう一つは、4世紀に突如として巨大な前方後円墳が出現している事です。

 広範囲に及ぶ運河が建設されたのは、計画都市の建設を意図したものと考えられます。日本列島における大規模な計画都市は8世紀の平城京ですが、それよりも500年も前にこの地で計画が行われたというのは、画期的な事でした。

 大和川へと通じる何本もの運河が作られている事から、「交通インフラ」を整備しようとしていたようです。ただし、4世紀後半には、この遺跡は消滅しています。計画が頓挫したのです。これについては、以前の動画「纏向遺跡、計画倒れの狗奴国の都」にて述べていますので、ご参照下さい。

 一方で、都市建設で培われた土木工事技術の進化によって、4世紀に突如として巨大な円墳が出現しています。これについては、以前の動画「纏向遺跡が遺したもの 箸墓古墳 技術の飛躍」にて述べていますので、ご参照下さい。

 纏向遺跡が巨大な計画都市であり、頓挫してしまった遺跡である事が、出土品の傾向からも顕著に見て取れます。

まず建造物に焦点を絞ってみましょう。

 運河建設では、矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な巨大水路が2本あり、「北溝」「南溝」と称されています。これに限らず、物流のための小さな水路も多く、運河を網の目のように張り巡らせる計画だった様子が窺えます。

 大型建物では、掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡が17棟見つかっています。これらが発見された当初は、卑弥呼の神殿跡だとしてマスコミが大騒ぎしましたが、それには当たらないでしょう。最大のものでも、古墳時代前期の23平米程度の建物だったからです。想像するほど大きな建物ではありませんよね? この程度の建物跡ならば、日本列島各地で幾つも見つかっています。

 運河などの大型の建造物は見つかっている反面、多くの人々が生活した痕跡が無いのが、纏向遺跡の特徴です。当時の一般庶民の住宅である竪穴式住居は、ほんの僅かしか発見されていない上に、水田遺構は全く見つかっていません。

 計画都市の建設の為に多くの土木工事作業員が滞在していたのは間違いないでしょうが、田圃を耕して生活の糧を得るという、古代人の基本的な生活がなされていた姿が、纏向遺跡からは浮かび上がらないのです。あくまでも都市を建設する事が主体で、その後に一般庶民を招き入れて農業を行わせる意図があったのかも知れませんが、その前に計画が頓挫してしまい、廃墟になってしまった。それが纏向遺跡の本当の姿です。

 出土品からもその傾向が見られます。農作業用の工具はほとんど無く、土木作業用の工具しか見つかっていないのです。明らかに、土木工事の作業中に消滅してしまった計画都市、と言えるのではないでしょうか?

 一方、威信財の出土品からもその傾向が窺えます。

強力な王族が存在していたならば当然持っているべき「威信財」の出土がありません。

 鉄剣や鉄鏃などの鉄製品が全く見つかっていないのは有名ですが、そのほかにも、青銅鏡や翡翠、瑪瑙などの勾玉類も、一切発見されていません。

 もちろん、これらが見つかってさえいれば、ここが邪馬台国であるという根拠にはなりませんが、これではあまりにも陳腐すぎます。おそらく、計画通りに都市が完成さえすれば、王族が移転してこの地を都にする意図があったのでしょうが、頓挫してしまった為に宝物の移動が行われないままに廃墟になってしまったのでしょう。

 なお、近年のマスコミを賑わしている出土品には、「桃の種」があります。

数千個におよぶ桃の種がこの地から出土しているのですが、これを卑弥呼が占いをする際に用いたものだ、としているのです。科学的な炭素14年代測定によって、ほんの一部が邪馬台国時代と一致したのですが、あたかもすべてがその時代かのようにマスコミが宣伝していました。まさに印象操作ですね?

 魏志倭人伝に桃に関する記述が無い事もないのですが、大騒ぎするほどのものではありません。また、桃の種が出土しているのはこの地だけではなく、吉備の国・岡山県に至っては、纏向以上に出土しています。

 マスコミは、とにかく纏向遺跡を邪馬台国の場所にしたくてたまらないようです。

  このように纏向遺跡の出土品からは、大規模ながらも頓挫してしまった計画都市だという姿しか浮かび上がりません。

もちろんこれを認めず、反論する畿内説支持者も多いでしょう。

 特に、鉄器などの威信財がほとんど見つかっていない事実については、

「まだ全体の5%しか発掘調査が行われていない。そのうちに大量に出土するはずだ。」

という意見があります。確かに全部で300ヘクタールある遺跡の15ヘクタールしか調査されていないので、残りの部分からの出土は期待できるでしょう。

 しかし、ほかの大規模遺跡との比較をしてみると、そうとも言えない部分もあります。例えば、面積規模で二番目に広い・鳥取県の妻木晩田遺跡です。全部で170ヘクタールある遺跡の内、10%の17ヘクタールが調査されています。調査された面積としては纏向遺跡とほぼ同じですね。ところがここからは、大量の鉄器が出土しています。鉇・斧・鑿・穿孔具・鍬鍬先・鎌・鉄鏃などで、弥生時代のもののみで197点が出土しているのです。また、竪穴住居395戸、掘建柱建物502戸など、一般住民の住宅や、権力者の宮殿も多数発見されています。比べ物にならない価値の高い遺物が見つかっています。これをどうみますか?

 もはや纏向遺跡に言い訳は通用しませんよね?

 いかがでしたか?

纏向遺跡については、多額の国家予算を使って調査が続けられています。そのために、桃の種のような些細な成果であっても、マスコミを使ってセンセーショナルに報道せざるを得ないのでしょう。「税金の無駄遣い」批判を避けるために。

国家権力やマスコミや考古学会が一体になって、纏向遺跡を邪馬台国にしてしまおうという動きは、なんだか不愉快です。

畿内は邪馬台国ではありません。敵対していた「狗奴国」です。