藤原氏が邪馬台国を抹殺した理由を完全解明します

 こんにちは、八俣遠呂智です。

これまで11回に渡って「邪馬台国を消した藤原氏」というテーマで、そのルーツを探ってきました。そして、九州・日向の国の馬飼職人がそれであり、5世紀頃に近畿地方に渡って来た集団だった可能性を突き止めました。また、6世紀の大和王権の勃興期には、日本史上初のスパイの役割を担ったものの、その後の失敗で冷や飯を食わされていた姿が窺えました。

 今回は、藤原氏が邪馬台国を抹消するに至った経緯を、一話にまとめました。

 記紀編纂時の権力者・藤原氏一族が、邪馬台国の存在を消し去った経緯を、そのルーツから順を追って整理して行きます。

 元々、朝鮮半島東岸の新羅で、馬の飼育や繁殖を生業にしていた職人集団が、藤原氏一族の祖先です。

西暦3世紀から4世紀頃には、北方の騎馬民族・高句麗が朝鮮半島を南下して勢力拡大を図っていました。その勢いに押し出される形で、抵抗勢力たちはボートピープルとなって日本列島に流れ着く事になります。その中に、馬飼職人・藤原氏のご先祖様も含まれていたのでした。

 彼らは、リマン海流や対馬海流の作用によって、一部の者は北部九州へ、また一部の者は山陰地方や北陸地方へと流れ着いたのでした。ところがそれらの地域は、馬の繁殖には適さない場所でした。馬が死滅しては新たなボートピープルが流れ着という風に、何度も何度も日本列島に馬と馬飼職人たちが流れ着た事でしょう。そんな中で4世紀~5世紀頃にようやく、馬の繁殖適地が見つかったのです。それは九州・日向の国であり、北関東の地域でした。これらの地域からは日本最古の馬の骨や、馬具類の出土がありますので、考古学上でも明らかです。

 日本神話の天孫降臨は、そんな藤原氏のご先祖様たちが苦労の末に日向の国・高千穂に辿り着いた様子を、天皇家の先祖・瓊瓊杵尊と、中臣氏の始祖・天児屋命の物語として記したものなのです。

 5世紀に入ると、近畿地方で巨大な前方後円墳の造成が始まります。

これに目を付けた日向の国の馬飼職人たちは、近畿地方への移動を決意します。なぜならば、大規模な土木工事には強力な動力源として馬の需要が大きくなるからです。早い話が、近畿地方で馬を利用した商売を始めて一儲けしてやろう、という山師的な発想だったのかも知れませんね?

 日向の国から近畿地方への移動は、そんな藤原氏一族の歴史であり、後の古事記や日本書紀編纂時に、天皇家の歴史として記したものなのです。つまり神武東征の元ネタだという事です。

 神武東征では、日向の国から直接近畿地方へは向かわず、北部九州へと向かっています。なぜそんな遠回りをしたのか不思議ですよね? しかしこれにもちゃんとした理由がありました。馬を運ぶための大型船が必要だったからです。

 5世紀頃までの大型船は、近畿地方の古墳から出土している舟形埴輪に見られるように、とても稚拙なものでした。見かけは派手なのですが、とても実用的ではありません。1990年に「なみはや号プロジェクト」という、これを復元して航海するという実証実験があったのですが、安定性が悪くて全く使い物になりませんでした。ましてや世界屈指の困難な海域である瀬戸内海に浮かべれば、かならず座礁してしまう代物でした。

 そのような造船技術しかなかった時代背景から、藤原氏のご先祖様たちは北部九州の勢力を頼ったのでした。玄界灘に面する地域に存在していた宗像海人族をはじめとする海のプロフェッショナル集団です。彼らに最新鋭の大型船の建造を依頼して、瀬戸内海を渡り切ろうという魂胆だったのです。

 神武東征の記録では、どういう訳か1年間も北部九州に逗留していますが、その理由はおそらく大型船の建造に時間が掛かったからではないでしょうか?

 なお、海人族たちにとっても渡りに船だったようです。それまで日本海航路という一本の海路しか持たなかった状態でしたが、そこに新たに瀬戸内海航路を開拓するという選択肢が増えたからです。なお日本書紀に記されている海の氏族、安曇氏や和爾氏などはこのエリアを地盤とした海人族です。彼らは藤原氏のご先祖様と一緒に近畿地方へやって来たのです。

 このように日向の国の馬飼職人・藤原氏一族は、馬を伴って近畿地方にやってきました。時代的には5世紀頃の事です。拠点とした場所は、河内平野北部地域です。神武東征の物語でも、近畿地方の最初の上陸地点は北河内になっていますね?

その当時、すなわち5世紀頃には、百舌鳥古墳群の巨大古墳に見られるように、奈良盆地よりも河内平野の方が強力でした。

 河内に存在していた豪族たちの古墳造成の為に、馬を貸し出して大いに利益を上げる事を目的に、この地を拠点にしたのです。日本書紀には、河内馬飼として、その存在が記されています。

 一方、馬の貸し出しによる副産物もありました。それは情報です。この地で勢力を張っていた大小様々な豪族の存在や、力関係、懐具合、さらには巨大古墳の造成で疲弊し切った一般民衆の心情など、馬飼職人なればこその情報が集まったのでした。そしてこの情報を活用する事で、近畿地方に大革命を起こす引き金を引く事になります。

 6世紀に入ると、北陸地方・越前の勢力が、近畿地方の征服に乗り出したのです。その地は近畿地方よりも一足先に巨大淡水湖が干上がった天然の水田適地でしたので、古代においては日本で最も農業生産力が高く、強大な勢力を誇っていた地域です。

 魏志倭人伝に記されている邪馬台国は、「七萬餘戸」という超大国ですが、それを十分に満足するだけの農業生産力があった場所ですので、私はこの地を邪馬台国に比定しています。そんな越前の地から、巨大古墳造成にうつつを抜かしていた近畿地方へと侵略の触手が伸びてきたのです。

 この近畿征服に一役買ったのが、藤原氏のご先祖様・河内馬飼首荒籠です。馬飼職人の頭領として、近畿地方の情報に精通していましたので、越前勢力の侵略に際しては諜報機関の役割を果たしました。日本の歴史上、初めてのスパイという事になります。これは日本書紀にも記されている事実です。

 こういった経緯で、越前勢力の近畿侵略は順調に進められました。まず、北河内の淀川下流域・樟葉野宮に都を置きました。これは、河内馬飼が拠点としていた馬牧場があった地域です。当時の近畿地方は河内平野が中心地でしたので、この地で既存の勢力と対峙するには絶好の場所でした。

 さらに都を転々と移します。淀川水系の要所だった筒城宮や弟国宮です。その地で水田開発に勤しんで、勢力の基盤を盤石なものにして行ったのです。最後に都としたのは、奈良盆地南東部の磐余玉穂宮です。

 その時代までは、まだ巨大淡水湖が残っていたこの地は、水田開発の余地が大いに残っており、超大国になる資質を備えた場所でした。しかしそれ以前には河内平野との利害関係があり、容易に淡水湖の水を干上がらせる事できなかったという事情がありました。

 河内勢力との戦いに勝利した越前勢力は、もはや何も気にする事なく淡水湖の水を干上がらせて、奈良盆地を広大な水田地帯へと変貌させて行ったのです。

 このようにして、6世紀に奈良盆地南部に初めて都が置かれ、日本の中心地となりました。その名称は、越前勢力が邪馬台国だった事にちなんで、ヤマトと命名されました。大和王権の誕生です。

 なお、越前勢力のトップは、日本書紀では第26代天皇とされている継体天皇であり、藤原氏と敵対する事になる蘇我氏一族もまた継体天皇と一緒に越前からやって来た豪族でした。

 藤原氏の先祖・河内馬飼は、スパイとしてヤマト王権の成立に重要な役割を果たしましたが、その後はあまりパッとしませんでした。冷や飯を食わされる地位に落とされてしまったのです。その原因は、磐井の乱です。

 磐井の乱は、継体天皇が都を奈良盆地南部に移した翌年に、北部九州で起こった反乱です。

朝鮮半島の利権拡大を目論んだヤマト王権軍に対して、北部九州の磐井勢力が朝鮮半島の新羅と結託して反旗を翻した戦いです。反乱自体は翌年に物部麁鹿火が鎮圧するのですが、初期の戦いで大失敗を犯した人物がいました。

近江毛野です。磐井との戦いに敗れただけでなく、朝鮮半島での利権拡大にもことごとく失敗した様子が、日本書紀に記されています。また、ヤマト王権成立時にスパイとして大活躍した河内馬飼首荒籠の息子・河内馬飼首御狩もまた近江毛野に従軍して、朝鮮半島での戦いに加わっています。

 彼らははいずれも新羅を起源とし、日向の国で馬の繁殖・飼育を行っていた藤原氏の祖先たちです。だからこそ、九州や朝鮮への出兵に駆り出されたのは、当然だったのです。河内馬飼はいうまでもありませんが、近江毛野についても九州出身である事が示唆されています。それは、磐井一族の頭領が近江毛野に対して、「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ」、と言ったと、

日本書紀に記されているのです。

 北部九州を基盤として新羅と結託して反乱を起こした磐井一族と、新羅を起源として九州・日向の国で馬飼職人をしていた藤原氏の先祖。両者の共通点は多く、近江毛野や河内馬飼が藤原氏の先祖だと推定するのに無理はありません。

 いずれにしても、近江毛野をトップとし河内馬飼を配下に従えた軍団は、大敗北・大失敗を繰り返してしまいました。これによって、ヤマト王権でのその後の藤原氏一族の扱いは決定づけられてしまったのです。組織の末端で冷や飯を食わされる事になりました。大和王権の樹立に大活躍したにも関わらず、そのような扱いを受けた藤原氏のご先祖様たち。忸怩たる思いや、継体天皇に対する恨みは計り知れないものがあった事でしょう。

 近江毛野や河内馬飼首御狩に関する記述は、磐井の乱での大失敗以外には登場しません。あまり触れたくない事実だったのかも知れませんね? それは、6世紀以降の現実的な古代史において最も大きな失敗を犯した人物が彼らであり、彼らこそが藤原氏一族のご先祖様だからです。

 もちろん日本書紀には藤原氏のご先祖様が大失敗したなどという記述は一切ありません。近江毛野や河内馬飼という名前を借りて、自らの失敗を隠したのではないでしょうか?

日本書紀という書物は、まさに藤原氏のルーツや失敗談を隠蔽する為の歴史書だった、とも言えるでしょう。

 磐井の乱の後の大和王権は、継体天皇と共に越前からやって来た蘇我氏一族の天下となりました。百済仏教導入の蘇我稲目。律令国家・中央集権国家体制を推し進めた蘇我馬子。馬子と共に活躍した聖徳太子もまた、蘇我氏の傍系血族に当たります。

 大和王権樹立に大活躍しながらも組織の末端に置かれてしまった藤原氏一族とは、対照的でした。

そして、磐井の乱から100年後の西暦645年。遂に藤原氏に、積年の恨みを晴らすチャンスが巡ってきます。大和王権の中枢で大活躍していた蘇我入鹿に嫉妬した中大兄皇子・後の天智天皇が、邪な暗殺計画を立てたのです。実行犯の候補として白羽の矢が当たったのが、ヤマト王権の底辺で冷や飯を食わされていた藤原氏の先祖・中臣鎌足でした。単なる殺し屋の役割りでしたが、名誉挽回・千歳一隅のチャンスだったはずです。

 後に乙巳の変と呼ばれるこの蘇我入鹿暗殺事件は、見事に成功しました。しかし、藤原氏一族の状況が一変した訳ではありません。中臣鎌足は元々組織の底辺にいた人物ですので、その後の大化の改新に活躍するだけの能力はありませんでした。さらにその後も中臣氏のお粗末ぶりが続きます。朝鮮半島での白村江の戦いでは何の武功を上げる事も出来ませんでした。大和王権での内部紛争である壬申の乱では、勝者となった天武天皇と敵対してしまい、再び冷や飯を食わされるはめになってしまいました。

 藤原氏の功績と言えば、乙巳の変で蘇我入鹿を殺害した事と、蘇我氏主導で編纂された天皇記や国記という歴史書を燃やし尽くした事でしょう。これによって、藤原氏の失敗談の数々や邪馬台国の歴史などは、灰燼 (かいじん) に帰したのでした。

 壬申の乱の後、天武天皇は新たな歴史書を編纂する事を命じました。それが8世紀に成立する日本書紀です。

藤原氏にとって幸運だったのは、天武天皇が日本書紀が成立する前に崩御された事でした。藤原不比等とは対立していた天皇でしたので、目の上のたんこぶが無くなったようなものです。

 これによってヤマト王権での藤原氏の地位は徐々に上がって行き、日本書紀に成立する頃にはトップに上り詰めました。当然ながら日本書紀は藤原氏一族の意向が強く反映されたものとなりました。天武天皇が新しい歴史書の編纂を命じてから40年、天武天皇が崩御してから30年も後の事でした。これだけ歴史書の編纂に時間が掛かったのは、やはり藤原氏にとって都合の悪い事柄をことごとく排除したり、隠蔽したり、書き換えたりした為だったのでしょう。

 藤原不比等が行った歴史の抹消や歴史の改変は、主に越前勢の功績です。

憎むべき越前の大王・継体天皇をショボい天皇としました。考古学的に実在の確かな最も古い天皇であり、実質的なヤマト王権の初代天皇であるにも関わらず、その功績をことごとく排除しました。藤原氏のご先祖様は、この天皇の時代に河内馬飼として大活躍したにも関わらず、冷や飯を食わされたという怨念があったからです。継体天皇の代わりに、自らの出身母体である日向の国の頭領を初代天皇とする物語を創作しました。これが神武天皇であり、神武東征は藤原氏一族が近畿地方へやって来た伝承を元ネタにしています。

 次に、様々な功績があった蘇我入鹿を大悪党にしました。継体天皇が樹立した大和王権で、初期のころから最重要ポストについていた蘇我氏一族。出身母体は継体天皇と同じ越前を中心とする北陸地方です。蘇我氏、藤原氏ともに、大和王権成立に尽力したにも関わらず、一方はエリートコースの最高官僚、もう一方は組織の末端の卑しい馬飼職人。という大きな格差が生じた事に対して、激しい妬みがあったのです。

 そして邪馬台国の抹消。

日本書紀よりも古い国記や天皇記という歴史書には記されていたであろう邪馬台国の記述。邪馬台国は、継体天皇や蘇我氏一族の出身母体だった越前の記録です。これらは蘇我氏が権力者だった頃に編纂されたものですので、当然のように記されていた事でしょう。藤原氏は、乙巳の変や壬申の乱という混乱に乗じて、自分にとって不都合な古い歴史書を焼き尽くしてしまいました。そして、日本書紀という新たな歴史書の編纂に当たっては、憎むべき敵である邪馬台国の存在を完全に無視しました。

 邪馬台国は魏志倭人伝にも記されている通り、「七萬餘戸」という超大国です。古代日本において、最も広大な水田適地に恵まれてい地域こそが、それにふさわしい場所です。それが越前の地でした。

 しかし、藤原氏にとっては最も触れたくない場所だったのです。

 ただし乙巳の変の後、藤原氏は越前の地を自分のものにしてしまいます。これは、過去の怨念よりも豊饒な水田適地・すなわち現実的な金蔓の方が遥かに重要だったという事なのでしょう。

 大和王権ではその後、藤原氏一族の天下が続きますが、理に聡く抜け目ない様子は、初期の頃のこういった行いからも垣間見られますね?

 いかがでしたか?

私が小学生の頃の歴史の授業では、中臣鎌足は古代史のスーパースターのような扱いでした。これはどう考えてもおかしいですよね? 彼は殺し屋ですよ? 小学生に殺し屋をスーパースターだと教えた教育。現在も続いているのでしょうか?

歴史は勝者によって書かれます。いつの時代も「勝てば官軍」ですから仕方ないのかも知れませんね?

敗れ去った蘇我氏一族とその地盤だった邪馬台国。いつ日にかその名誉が回復される事を祈っています。