弥生の宝箱 超大国になれず

 邪馬台国から北部九州へ、魏志倭人伝の行路を、逆行する旅をしています。

これまで、邪馬台国から投馬国、そして魏志倭人伝では無視されている出雲国を訪ねてきました。

 今回からは北部九州に入ります。ここは言うまでもなく、朝鮮半島に最も近い場所ですので、弥生遺跡の宝庫ですし、魏志倭人伝の記述も詳細に行われています。また、記紀に記されている神々も九州が起源とされいますので、単純に考えれば邪馬台国は九州にあった・・・と、私もかつてはそう信じていました。

 今回は、北部九州の全体像を俯瞰します。

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出雲から九州へ

 これまでの動画で、邪馬台国・越前から出発して陸路一月で投馬国・但馬に到着し、そこから船団を組んで西の方角へ向かい、古代出雲の地域に入りました。飛鳥時代からの行政区分で、因幡、伯耆、出雲、石見、長門、隠岐です。以前の動画「出雲国シリーズ(34)編」にて、古代出雲全域の調査をして来ました。

 今回からは古代出雲の西の端・長門の国を旅立ち、北部九州・不弥国を目指します。

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北部九州は詳細

 北部九州の詳細に入る前に、まずは魏志倭人伝の行路を確認しておきます。この地図は、北部九州と対馬海峡、および朝鮮半島南端です。

 まず、朝鮮半島の帯方郡から、狗邪韓国(くやかんこく)まで、7,000里

海を渡って対馬国まで、1,000里

さらに一大國まで、1,000里

末蘆国(まつらこく)まで、1,000里

ここからは陸路で、500里で伊都国、100里で奴国、100里で不弥国に到着します。

 不弥国から投馬国、および投馬国から邪馬台国へは、対馬海流を利用した沖乗り航法で、移動することになります。

 不弥国までの行路にも様々な説がありますが、北部九州は朝鮮半島に近いだけあって、行程は細かく記されています。多少の誤差はあっても、北部九州内のどこかである事は間違いないので、ここでは、詳細を省略します。

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北部九州は地の利あり

 九州は言うまでもなく、朝鮮半島や中国大陸に最も近い場所です。従って、多くの先進文化が最初に入って来た場所である事は、疑いようがありません。

 弥生時代の基本である稲作については、3000年前の米粒が発見され、畑作の米作り、すなわち陸稲の栽培が始まっていたと推測されています。また、2300年前には、水田による稲作も行われていた事が分かっています。

 この稲作文化の伝来については、かつては朝鮮半島から入って来たとされていました。しかし、近年では、中国大陸・長江流域から伝来し、日本から朝鮮半島に持ち込まれたとする説が主流のようです。

 また、鉄器についても水田稲作が始まったのと同じ時期に伝来しており、日本最古の鉄器が出土しています。

 稲作・鉄器に限らず装飾品や絹織物など、弥生時代だけに限って見ても、九州は宝箱のような存在です。

 あまりにも豊富なので、今後、特徴ある遺跡に絞って、順次紹介して行きます。

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弥生の宝箱
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農業の視点

 北部九州は、日本列島における水田稲作発祥の地ではありますが、弥生時代に大規模に行われていたかというと、そうではありません。

 今回は、地学の視点から、弥生時代の北部九州の農業状況についてザックリと示します。

 この地図は、北部九州地域を拡大したものです。

まず、玄界灘沿岸地域です。ここは魏志倭人伝の行路になっている場所で、出土品も多彩です。しかし、農業の視点からは注目に値しません。陸稲・麦・稗・粟などの収穫効率の悪い畑作栽培は行われていたでしょうが、水田稲作に適した土地は限られていました。

 現代で一定規模の平地がある福岡平野は、博多湾に流入する室見川,那珂川,多々良川などの短い河川の扇状地で形成されていますので、水田稲作には適していません。また、直方平野(のおがたへいや)は、日本海沿岸の各地に見られる汽水湖でした。弥生時代には、まだ水引が起こっておらず、水田稲作が可能だったのは、海岸に近い下流域や、湖沿岸の干潟だけでした。そのほかの地域は、山地が海岸線にまでせり出していますので、大きな農業収穫は得られませんでした。

 弥生時代の様子を農業の視点から推測すると、玄界灘沿岸地域には、小さな国々が林立していたと思われます。

 一方、内陸部の筑紫平野もまた、河川による沖積平野ですので、弥生時代には密林地帯でしたし、下流域は、まだ有明海の底でした。

 古墳時代の近畿地方や、邪馬台国・越前のように、巨大淡水湖から天然の水田稲作地帯になった土地は、この地域には見当たりません。

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農業小国

 また、鉄器の伝来が早かったからといって、開墾・開拓が進んでいたとは言えません。これは、以前の動画で考察した通りです。江戸時代初期でさえ、筑前の国は僅か52万石しかありませんでした。

 今回は、北部九州の全体像を俯瞰してみました。

 邪馬台国が弥生時代の超大国だったとすれば、それが北部九州に存在していた可能性はありません。

 農業の視点から、弥生時代に超大国になれる要素は無く、小国林立の状態でした。魏志倭人伝の「倭国大乱」は、北部九州での、小国同士の小競り合いの様子を記したものとみられます。

 次回は、北部九州が超大国になり得なかった理由を、地学の視点から、近畿地方などと比較しながら、再検証します。

 魅力的な弥生遺跡の宝庫でありながら大国になれなかった九州を、農業という基本から見つめてみます。