甘木・朝倉説(後編)

 九州説の大本命、甘木・朝倉説。

筑紫平野北部に位置し、豪華な出土品が豊富。しかも、水田稲作に適した筑紫平野は、豊富な米を供給していた・・・ はずが!?

実際は、ジャングル地帯でした。

 弥生時代中期に、日本に真っ先に入ってきた鉄器でしたが、これを使ってジャングルを開墾した形跡はありません。

 では、どうして甘木・朝倉地域が、九州の中で、ある程度の国となれたのでしょうか?

 まず、筑紫平野は縄文海進時に海底でした。これにより、土地の傾斜が極端に緩く、土の質が侵食され易い泥質になりました。この一帯は、縄文時代に海水が引いた為、耕作地としての手入れがされず、湿地帯・雑草地・雑木林・ジャングルとなってしまいました。そこに流れる筑後川および、その支流群は歳月を掛けながら川岸を侵食し、蛇行します。これは、平坦で地層の柔らかい筑紫平野ならではです。まさに右図のように、ジャングルの中を蛇行する河となった筑後川とその支流群ですが、頻発する洪水により流れが変わり、三日月湖が残ります。

ジャングル
筑紫平野の弥生時代は、ジャングルだった。

 下図のような順序です。カーブを描いていた川の流れは、洪水により近道を進むようになります。すると、蛇行していた部分が取り残されて、池や湖となります。この三日月湖が干上がると、平坦で水はけは悪いけれども、水田稲作には最適な土地となるのです。

 

 筑紫平野には、こういう三日月湖跡が至るところに出来上がるようになりました。点々と散らばるこれらの場所で稲作が行われ、甘木・朝倉地域が集積地となったわけです。しかし、広大な筑紫平野の割には、わずかな耕作面積でした。

甘木朝倉
甘木・朝倉は、地政学上の好立地
甘木朝倉1
甘木・朝倉は、地の利だけ。

  一方、筑後川上流の日田盆地は、面積は狭いながらも、穀倉地帯でした。近畿地方の河内湖や奈良湖と同じように、淡水湖が干上がった良好な土地です。ジャングルになる前に水田化されていて、広大な筑紫平野よりも多くの農業生産が行われていました。

 地政学的に、甘木・朝倉は絶好の位置です。博多という大きな港町と、日田という穀倉地帯を結ぶ中間地点ということで、重宝された場所なのです。

 このように、農業生産はあまり多くなかった甘木・朝倉地域ですが、銅製品などの出土品から、九州の中での地位は高かったようです。九州の中でのポジションが高くても、日本全国から見れば小国でしかありません。弥生時代の出土品が出るのは、中国・朝鮮に近いという地の利だけです。

 従って、甘木・朝倉地域は、邪馬台国とは言えません。


 話は変わりますが、近畿地方に、九州と同じ地名の場所が多い、と指摘する学者がいます。

これを持って、 「九州東征説」 を唱えていますが、それは逆でしょう。

 古墳時代に、近畿勢力は、九州を征服しました。それゆえ、近畿と同じ名前が九州に多いのです。