伊勢神宮 先進地域との強い繋がり

 こんにちは、八俣遠呂智です。

東海シリーズの3回目。すべての神社の総本山と言える伊勢神宮。古墳時代に建立されたとした場合、巨大古墳が造営されていた畿内に存在していてもよさそうですが、なぜか東海地方・伊勢の国にあります。その理由は、西日本と東日本を分ける重要な交通の要衝だったから。と推測しました。また、伊勢神宮は意外にも、近畿地方よりも日本海側との結びつきが強く、神社伝承だけでなく考古学的にも面白い発見があります。

 伊勢神宮の始まりは、日本書紀に記されている神話の世界です。現実的な起源はというと諸説がありますが、5世紀の古墳時代が妥当なところでしょう。その時代は、河内平野や奈良盆地などで巨大古墳が造成されていた頃です。畿内には強力な勢力が存在していた状況の中で、その中心部ではなく、隣に位置する東海地方の伊勢の国に大きな社が造られました。

これは、その当時の奈良盆地や河内平野の勢力が東海地方にまで及んでいたというよりも、むしろ別の勢力がこの地を拠点にしていたのではないのか? と思えます。

 伊勢神宮の場所は、伊勢湾の出入り口に位置しているだけでなく、東の国々が紀伊半島に上陸する交通の要衝です。

この地に拠点を置く事によって、濃尾平野をはじめとする湾岸地域や遠州灘沿岸地域、さらには関東地方までも含めた広大な地域を統括する役割を担っていたのでしょう。

 ところが文献史を紐解くと、東日本との関係性は薄く、むしろ日本海勢力との関係性が色濃く見られます。

まず伊勢神宮に祀られている祭神です。

 伊勢神宮には天照大神を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神であるトヨウケビメを祀る豊受大神宮の二つの正宮があります。一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれています。

 ここで、天照大神と日本海側との関係は、天岩戸隠れの元ネタになった皆既日食です。三世紀の邪馬台国の時代、247年と248年の二回、日本列島で皆既日食が起こっています。その内、確実に観測されたのは卑弥呼が死亡した248年です。観測地点は、近畿や九州などではなく、北陸地方の能登半島です。また霊峰・白山の女神・菊理媛神(ククリヒメのカミ)は、天照大神の元になった人物だとする説もあります。

 一方トヨウケビメについては、丹後国風土記に記されている人物です。羽衣伝説と呼ばれるお伽話の中の主人公です。日本全国には幾つもの羽衣伝説がありますが、その中、最も古いのは丹後国風土記です。

羽衣を盗まれて故郷に帰れなくなった天女が、辿り着いたのは、奈具社というお社です。ここは邪馬台国時代の鉄器出土量が日本で最も多い事で有名な奈具岡遺跡のある場所です。お伽話ではあっても、強烈な考古学的な史料も存在しているというのは興味深いですね?

 トヨウケビメの物語は、渡来人伝説が昇華したお伽話だと思えますが、そんな日本海側の人物が伊勢神宮の主祭神の一人として祭られているのです。

 なお、古事記や日本書紀に大いに描写されている天照大神に対して、トヨウケビメは全く記されていません。丹後の国風土記にのみ登場する人物です。

 また、日本書紀に記されている伊勢神宮の履歴については、

「近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る」

とあります。これはまさに日本海勢力と伊勢の国との接点と言える行路です。

丹後の国や越前の国といった日本海側の古代の先進地域は、弥生時代末期には女王國という強力な諸国連合国家でした。その地域から内陸部へ入って行くには、若狭湾から琵琶湖の北部へ抜けるルートが最も活用されていました。

小浜から高嶋、あるいは敦賀から長浜、といったルートです。さらに東海地方に入るには、米原から伊吹山の峠を一つ越えるだけです。現在の岐阜県関ケ原に当たります。

 まさに日本海勢力が伊勢神宮を建立するに至ったルートが日本書紀にも記されているという事です。

天照大神やトヨウケビメという日本海側の人物たちが伊勢神宮の主祭神として祀られている事、との整合性が取れる文献史料と言えます。

 一方、伊勢の地に鎮座することが決まる途中に、一時的に鎮座された場所があったとの記述も見られ、それは「元伊勢」と呼ばれています。この元伊勢も丹後の国に実在しています。京都府宮津市にある籠神社(このじんじゃ)です。

そのものズバリ「元伊勢籠神社」と呼ばれる事もあります。

 籠神社の神職は、古くより海部氏(あまべうじ)の一族が担っていました。これは丹後に拠点を持っていた海の氏族で、「海部氏系図」という日本最古の系図が残されている事でも有名ですね?

 海部氏はまた、東海地方の古代豪族・尾張氏や、卑弥呼のモデルとされる神功皇后の息長氏、さらには壬申の乱で関ケ原に陣を張った天武天皇とも深い繋がりのある氏族です。彼らは、記紀編纂時の実力者・藤原不比等と敵対した勢力でした。その為に記述量が少なく、認知度が低いという特徴があります。

 いずれにしても、文献史から読み解く古代史は、藤原氏一族に敵対していたか否かによって、大きく左右されてしまう傾向にあります。

 しかしながら、伊勢神宮と丹後の国とを結びつける、確固たる証拠も実在しています。それは、赤色顔料・朱丹です。

 古文書や神社伝承という根拠の希薄な史料のみならず、考古学的な出土品からも両者の強い繋がりが窺えます。

辰砂という朱丹(硫化水銀)の原料になる鉱物の産地が、伊勢の国にはあります。三重県多気郡多気町にあった水銀鉱山で、丹生鉱山(にうこうざん)と呼ばれていました。伊勢神宮のすぐ近くです。

 ここから産出された朱丹が、丹後の国・赤坂今井墳墓の中に敷き詰められていたのです。赤坂今井墳墓は、2世紀~3世紀という邪馬台国の時代のもので、豪華な装飾品が副葬されていた事で有名ですね? その被葬者の周りにまかれていた朱丹が、伊勢の国の朱丹だったのです。

 朱丹は赤色顔料や薬品・防腐剤として、古代においては貴重品でした。日本では弥生時代後期の墳丘墓の被葬者に大量に撒かれています。主に、日本海側の先進地域においてこの風習が見られますが、その後の4世紀以降には、近畿地方の古墳でも同じように朱丹が撒かれるようになりました。

 朱丹という古代の貴重品が、邪馬台国時代には既に、伊勢から丹後へと運ばれていたのです。

伊勢神宮という古墳時代に作られた神社だけでなく、その数百年も前の弥生時代から、伊勢と日本海側とは強力な結びつきがあったと見て間違いないでしょう。

 ちなみに弥生時代においては、距離的に近い畿内へは、朱丹が運ばれた痕跡は全くありません。

 これらの事から、伊勢神宮は東の国々との交通の要衝ではありますが、その支配は畿内勢力でななく、先進的な日本海勢力の支配が及んでいたのではないのか? と思えます。

 弥生時代の勢力構図では、日本海側に女王國、近畿地方に敵対した狗奴国がありましたが、東海地方・伊勢の国の支配は、女王國が担っていたのです。

 なお、6世紀に邪馬台国の大王・継体天皇が近畿地方を征服しますが、その際にも、尾張氏という東海地方の勢力が味方しています。どうやら、奈良盆地や河内平野などの畿内、すなわちライバル狗奴国は、周囲を女王國に取り囲まれて、完全に孤立していたようですね?

 いかがでしたか?

三重県の丹生鉱山の朱丹が、邪馬台国時代の丹後半島の墳丘墓から見つかっているのは有名ですね? 私はこれまで、なかなか両者の繋がりが見えませんでした。しかし、若狭湾から琵琶湖に入り関ケ原に抜けるという、とても便利なルートがある事や、伊勢神宮が丹後の国と強い繋がりがある事。など、一つ一つ事実を積み重ねて行くと、両者が一つの勢力だった可能性は高いように思えてきました。

 今回もまた、記紀編纂時の実力者・藤原不比等によって隠蔽された本当の歴史が、僅かながら見えてきました。

渥美半島は安曇氏

 伊勢神宮のある志摩半島の向かい側に、渥美半島があります。渥美と言われると、「男はつらいよ」しか思い出さなかったのですが、渥美の語源は安曇である。という説があるそうです。そうです、古代海人族の安曇族です。

 これはちょっと、音韻が似ているだけで厳しいんじゃないの? と思っていたのですが、案外的を得ているかも知れませんね?

 日本書紀によると、渥美氏という氏族がこの地を任されたようなのですが、その氏族自体が安曇氏だった可能性です。伊勢神宮の志摩半島と対岸の渥美半島。ここは明らかに交通の要衝です。渥美半島は特に東の国々が船でやって来る場所です。ここに強力な海の氏族を配置した、と考えても自然なように思えます。

 それに、伊勢神宮の根源が丹後の国だとした場合、元伊勢神社の古代海人族・海部氏。若狭湾から峠を越えた琵琶湖沿岸の安曇川。など、安曇氏との関係を匂わす地名も多く残っています。

 まあ、俗説の一つではありますが、渥美半島も安曇氏の拠点だった可能性は高そうですね?