国引き神話は真実だった

 因幡の人骨DNA鑑定結果や、隠岐の黒曜石などから、4000年前の縄文時代には、日本海巡回航路が確立していただけでなく、環日本海全域に縄文人が住んでいた可能性が高くなりました。

 これによって、弥生時代に起こったとみられる様々な事件が、芋づる式に解明されそうです。

 その中の一つ、出雲国風土記の冒頭に記されている「出雲国引き神話」は、単なる神話ではなく、事実に基づいて作られた話として筋が通ってきます。

 出雲の国は、高志、新羅、北門佐岐、北門農波の、計4ヶ国から作られたとされています。

 出雲国引き神話については、以前の動画でも考察していますが、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」という前提で、再度検証します。

国引き真実10
縄文人がキーマンだった

 出雲国引き神話は、八束水臣津野命(やつかみず おみつぬ のみこと)という神が、出雲を小さく作ってしまったと後悔し、遠くの四つの国々の余った土地を引っ張ってきて、つなぎ合わせた、という神話です。もちろん土地を引っ張って来るのは不可能ですが、四つの国々から人々が集まって国造りを行った事の例えとして、「国引き」という神話にしたのでしょう。

 この神様が引っ張ってきた土地とは、「志羅紀」「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)「古志」という四つの地域の余った土地です。

 この中で、「志羅紀」は朝鮮半島東部の新羅、「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)は中国東北部、「古志」は日本列島の北陸地方を意味する「高志の国」の事です。

 高志の国は、現代の越前・福井平野に、当時としては日本最大の広大な水田稲作地帯が広がっていました。高志の国が出雲の国を支配し、植民地化していた事は、古事記の「ヤマタノオロチ伝説」や、出雲風土記の開拓史からも明らかですので、国引き神話には説得力があります。

 一方で、朝鮮半島東部や中国東北部は、寒冷地で降水量の少ない地域ですので、農業は小規模な畑作農業でした。また住民は、遊牧民族が主体だったと見ていました。そのため以前の動画では、「ボートピープルが出雲の地に流れ着いた」という程度にしか、考えていませんでした。ところが、遊牧民族がボートピープルになるのは余りにも不自然です。逃げるとすれば陸地を逃げるでしょう。仮に船で逃げたとしても、しっかり目的地に辿り着くだけの航海術は、持っていませんでした。

 また、弱肉強食の古代の話ですので、四つの国の異なる民族が集結しても、戦いが起こるだけで、神話のように、都合よく協力体制が敷かれたとは思えませんでした。

 この疑問を解いたのが、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」という可能性です。

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環日本海には縄文人ネットワークがあった!

 前回の動画で示しました通り、海洋民族である縄文人は4000年以上前から中国東北部の日本海沿岸地域や朝鮮半島を支配していた可能性を指摘しました。そして、因幡の人骨DNA鑑定結果から、高い確率でこの仮説が立証されました。

 海洋民族である縄文人は、対馬海流とリマン海流の流れを利用して、ダイナミックに日本海を航海していた姿が想像されます。

 現代のような国境の無い時代です。彼らは日本海沿岸各地で集落を形成して行ったのでしょう。

 そして弥生時代に稲作文化が入って来ると、水田稲作の最適地である高志の国に、邪馬台国という一極集中型の巨大国家が出現しました。その組織は、弥生人という農業労働者たちの上の立場に、縄文人がいたと考えられます。

 一方で、縄文時代から続いていた日本海を巡回する航路は、弥生時代になっても衰える事なく続いていました。縄文人による環日本海ネットワークが形成されていたのです。

 やがて、水田稲作の素晴らしさを知った彼らは、出雲の国という狭いながらも水田稲作の可能性を秘めた土地に目を付けました。

 その当時の出雲平野は、海水と淡水が混ざった汽水湖で覆われていて、農耕地は猫の額ほどしかありませんでした。この地を干拓して平野を広げれば、食料の安定生産が飛躍的に伸び、国力が増強される事を、越前・福井平野での成功体験から、彼らは知っていたのです。

また、中国東北部や朝鮮半島に住んでいた縄文人の末裔たちにとっても、水田稲作という魅力的な食料にありつける絶好の機会だったのでしょう。

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縄文人が出雲に結集

 弥生時代の様子を想像すると、出雲開拓の主役は、水田稲作で大成功を収めた高志の国・邪馬台国が担っていたのでしょう。彼らは、中国大陸東北部の日本海沿岸地域や朝鮮半島を支配していましたので、そこに住む縄文人の末裔たちと共に、出雲に移り住み干拓工事を行ったのです。

 出雲国引き神話で語られているような、四つの国々の余った土地ではなく、四つの国々の余った人材を引き連れて、出雲の国の開拓を行ったという事です。

 航海のプロである海洋民族・縄文人ですので、人材移動の流れも容易に推測できます。

高志の国を起点として、対馬海流を利用して対岸に渡り、リマン海流を利用して「北門農波」(きたどのぬなみ)、「北門佐岐」(きたどのさき)、「志羅紀」、の順に人材を集め、再度、対馬海流を利用して出雲の国に集結したのです。

 このように、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」とすれば、出雲国引き神話は実話が基になっている、という事がすんなりと受け入れられます。

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出雲には高志(古志)の地名が多い

 国引き神話からは、環日本海地域を支配していた高志の国・邪馬台国と、縄文人の末裔たちの姿が浮かびます。また、出雲風土記には、国引き神話のほかにも、【古志郷伝承】や【狹結驛(さゆふのうまや)伝承】という高志の国から干拓工事にやって来ていた人々の話があります。そして、その地からは、古志遺跡群という弥生時代の大規模集落跡も発見されています。また、古志からくっ付けたとされる「美保の崎」、松江市古志町、そして松江市古志原という、高志に由来する地名が数多く残っています。これらの事からも、出雲国引き神話は実話が基になっていると考えられます。

 「環日本海全域に縄文人が住んでいた」との仮定は、真実である可能性の高い、一つの根拠になるのではないでしょうか。

 古代において、日本列島に文明を伝えた人々の多くは、朝鮮半島の新羅系です。それだけ聞けば、なんだか現代の朝鮮人の先祖が日本へ文明を伝えたかのような、不愉快な気分にさせれらます。

 ところが、視点を縄文時代にまで遡らせれば、文明を伝えたのは縄文人の末裔たちであり、日本人自身が大陸から文明を持ってきた事が明確になります。

 では、現代の朝鮮人は、いつ?どこから? やって来たのか。

彼らは、挹婁(ゆうろう)という高句麗の提灯持ちのような民族でした。これは、いずれ動画にて詳細を説明します。

 次回は、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」ことから解明される、神功皇后の三韓征伐について再度考察します。