魏鏡と呉鏡 倭への影響は?

 前回、魏から下賜された銅鏡100枚は「紀年銘鏡」である可能性を指摘しました。また同じ時代には、魏の敵対国である呉の国でも銅鏡が生産されていました。と言うよりも、三角縁神獣鏡のような龍の絵が描かれた銅鏡は、中国南部・長江流域からの出土が多く、当時の呉の職人が作っていたという説が有力です。三国志時代の中国の勢力関係が、日本列島にも及ぼしていたとする説もあります。

 今回は、呉の年代が入った銅鏡についてです。日本列島では山梨県、兵庫県、熊本県から3点の出土があります。

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後漢鏡
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呉鏡

 魏鏡と呉鏡について語る前に、ひとつ前の時代の後漢鏡に遡ります。

この時代の中国の政治状況は複雑で、簡単には語れませんが、ざっくりとアウトラインだけを示しておきます。

魏・呉・蜀という三国志時代の銅鏡は、前の時代に中国全土を掌握していた後漢(西暦25年~220年)の頃に製作された銅鏡の文様や型式を受け継いでいます。

魏の年代が記された方格規矩四神鏡や、内行花文鏡も、後漢の時代から同じようなデザインが施された銅鏡が製作されていました。

 後漢の都は黄河流域の洛陽でしたので、魏がその文化を受け継いで魏鏡を製作したのは自然な流れです。

 ところが後漢が滅亡した時期には、洛陽では数十年に渡って戦乱が続き、一時的に銅鏡製作の文化が廃れたとされています。

 そして新王朝・魏が安定した頃に、当初は魏の配下だった南部・長江流域の、呉の国から鏡職人がやって来て、銅鏡製作が復活したとする説が有力です。

 長江流域から出土する銅鏡には、神獣や龍をあしらった文様が多いので、神獣鏡などの銅鏡は呉の文化が大きく影響しているとされています。また、呉鏡の初期のものには、魏の年号が記されていました。

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呉鏡には魏の年号

 その後、呉は、魏と敵対関係になってしまいます。そして、独立国家となった後は、呉の年号を記した銅鏡が製作されるようになったのです。

 このような状況でしたので、同じ中国の中でも異なる年号が使われて、それぞれの銅鏡に記されるようになりました。

日本列島から出土する邪馬台国時代の銅鏡にも、魏の年号が記された銅鏡と、呉の年号が記された銅鏡が存在しています。この出土地の分布状況から、日本国内でも魏のバックアップを受けた勢力と、呉のバックアップを受けた勢力があるとの説を唱える古代史研究家もいます。

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呉鏡の分布

 では、日本国内で出土した紀年銘鏡の分布を示します。まず前回の動画の繰り返しになりますが、魏の紀年銘鏡の分布です。八点の鏡が、日本列島にランダムに分布しています。しかし、これに女王國の勢力範囲を重ねてみると、八点中五点は、この範囲から出土している事が分かります。また、大阪府高槻市の安満宮山古墳出土の銅鏡と、群馬県高崎市の柴崎蟹沢古墳出土の銅鏡は、日本海側からの伝世鏡の可能性が高いものです。詳細は前回述べていますので、ご参照下さい。

 このように魏の紀年銘鏡は、女王國の勢力範囲とほぼ一致していると言えるでしょう。

一方、呉の紀年銘鏡は2点出土しています。

 西暦238年、呉の年号である赤鳥元年の銘がある内行花文鏡が、山梨県市川三郷町(いちかわみさとちょう)の鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん)から出土しています。

 西暦244年 赤鳥七年の銘がある平縁神獣鏡が、兵庫県宝塚市の安倉高塚古墳(あくらたかつかこふん)から出土しています。

 また、紀年銘鏡ではありませんが、確実に呉で製作されたとみられる金メッキを施した銅鏡が一点見つかっています。

熊本県あさぎり町の才園古墳(さいぞのこふん)から出土したリュウ金獣帯鏡です。

 このように、呉の銅鏡は日本列島の南部に分布しており、日本海側からは一点も出土していません。

 日本海側の魏鏡、太平洋側の呉鏡、すなわち日本海側は魏志倭人伝にる女王國であり魏の勢力、太平洋側は呉の勢力。と結論付けてしまいたいところですが、そうはいきません。非常にサンプル数が少ない事や、これらの銅鏡がすべて古墳時代の遺跡の出土という伝世鏡の可能性が高い事などから、安直には判断できません。

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呉の影響なし

 三国志の記述では、魏の皇帝に朝貢している倭の女王國が、明らかに魏のバックアップを受けている事が分かります。

しかし、呉の勢力が倭国のどこかと連携していた可能性はありません。魏書東夷伝の中に倭人条はありますが、呉書の中には、倭に関する記述は全くないのです。もし、日本列島の太平洋側が呉と繋がりがあるのならば、三国志の中で当然のように記載がなければならないと思います。

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呉のボートピープルか?

 また地政学的にも、太平洋側が中国南部地域と交流を持つ事は不可能でしょう。単純に地理的には日本列島の南側と、中国の南側ですが、だからといってそう簡単にはいきません。最大の理由は、海流の影響です。長江流域から日本列島の太平洋側に来るには、黒潮にさえ乗れれば比較的容易に辿り着く事が出来るでしょう。しかし逆は無理です。弥生時代という帆船が存在せず、丸木舟や準構造船という人力の動力しか無かった時代に、中国南部まで航海するのは不可能です。

黒潮は最大4ノットという世界で最も早い潮流速度を持つ海流です。何百キロもの距離を、こんな海流に逆らって、沖乗り航法で、しかも人力だけで渡り切るなど、完全に不可能でしょう。

 では、どうして太平洋側にだけ呉の銅鏡が出土したのでしょうか?

おそらくそれは、権力抗争に敗れた呉の豪族の一部が、ボートピープルとなって、日本列島に漂着したと見るのが自然でしょう。銅鏡という家宝を携えて、命からがら海に逃げ込み、黒潮に流されるまま流されて、日本列島に辿り着いたのはではないでしょうか。つまり、呉という国との相互交流ではなくて、呉から倭国への一方通行だったと推測します。

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伝世鏡

 話は少しそれますが、銅鏡の伝世鏡の考え方についての補足です。

一つの例として、福井県福井市の花野谷一号墳からの出土品をあげます。

ここからは、中国製の銅鏡二枚が出土しました。紀元前一世紀の前漢の時代の連弧文銘帯鏡と、紀元後四世紀の三角縁神獣鏡です。約400年もの時間差がある銅鏡が、同じ場所に一緒に副葬されていたのです。これをどう捉えればよいのでしょうか? 単純な話です。大切に大切に何百年も保管してあった銅鏡という家宝を、ある名誉ある大王が死亡した際に、まとめて副葬した、と考えてよいのではないでしょうか。

 これが伝世鏡の考え方です。必ずしも間違った考古学的思考ではありません。

ちなみにこの花野谷古墳は、土器などの出土品から六世紀頃と推定されています。という事は、三角縁神獣鏡で200年以上、連弧文銘帯鏡で600年以上も受け継がれたあとに、副葬された事になります。

 このような実際に見つかった事例を見てみると、邪馬台国を銅鏡の出土品から推定するのは、極端に困難であると言えるでしょう。

 弥生時代の鏡には、大きく分けて、前漢鏡、後漢鏡、魏鏡、呉鏡がありますが、そのほかにも、鉄の鏡があります。これは、大分県日田市のダンワラ古墳から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡です。まさに邪馬台国時代、中国では三国志時代の鉄鏡です。魏の皇帝・曹操の陵墓から発見された鉄鏡と同一である事が確認されています。日田盆地という九州でも内陸部にある地域から出土したのは、この地が邪馬台国であったか、あるいは伝世鏡として他の地域から持ち込まれたか、の可能性があります。いずれにしても、鏡から当時の勢力構図を描くにのは、単純なものではありません。