卑弥呼の墓② 見つけた!

 卑弥呼の墓を見つけるには、まず弥生時代の大規模な墳丘墓の分布を知る必要があります。それは、どの地域に強力な王族が存在していたかを知る手掛かりになるからです。前回は、弥生墳丘墓の基礎知識の整理から、大規模墳丘墓の分布について考察しました。残念ながら、魏志倭人伝に記されている「徑百餘歩の円墳」は、大きさ・形とも、日本列島のどこにも存在していません。しかしそれらは、ちゃんとした発掘調査が行われた場所に限られていたのです。

 私が見つけた卑弥呼の墓は、地元の人しか知らない、歴史の闇に消えそうな墳丘墓でした。

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大型墳丘墓

 まず前回の繰り返しになりますが、弥生時代の大型墳丘墓の分布です。

北部九州では方形周溝墓。山陰地方では四隅突出型墳丘墓。但馬・丹後・丹波地方では方形周溝墓。北陸地方では四隅突出型墳丘墓。吉備地方では双方中円形墳丘墓。

 それぞれの特徴ある大型の墳丘墓が見つかっています。このほかの地域では、残念ながら10メートル以上の大型の墳丘墓はあまり見つかっていません。なお、近畿地方の箸墓古墳などの前方後円墳は、従来通り四世紀の古墳時代と見なします。

 この事から、弥生時代に強力な王族な存在していたのは、日本海沿岸地域だったと推定します。一方、吉備の墳丘墓に埋葬されていた棺は出雲地域と同じもので、土器類も類似点がある事から、日本海側から文化が入って来たと考えられます。弥生時代においては、日本海側が表日本、太平洋側が裏日本だった事が、墳丘墓の分布からも理解できるでしょう。

 これに私の説の女王國の領域を重ねてみます。すると、ほぼ同じ地域となりました。

邪馬台国の場所、および卑弥呼の墓を見つけるには、日本海側に焦点を当てるのが自然でしょう。

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墓の所在地

 魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記述は次のようになっています。

「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」

卑弥呼もって死す。大きく墓を作る。径百余歩。殉葬者奴婢百余人。

卑弥呼の死に際して、直径が百余歩もある大きな墓を作ったとの事です。なお、魏志倭人伝の描写から、女王國の内部で作られた事は間違いありませんが、邪馬台国に作ったという記述はありません。ただし普通に考えれば、諸国連合である女王國の一つで、女王の都と記されている邪馬台国にお墓があったと考えても、無理はないでしょう。

 では、邪馬台国はどこでしょうか? 私は、弥生時代の農業の視点から越前を邪馬台国と比定しました。巨大な淡水湖跡の天然の水田適地が広がるこの地域が、その当時の農業生産高では日本列島で最も大きいと考えたからです。魏志倭人伝には、邪馬台国は七萬餘戸と記されており、女王國の中で最も大きな国です。それに見合うだけの農業生産がこの地にはあったと推測します。この越前の地に、卑弥呼の墓があると推測しました。

 なお邪馬台国越前説の根拠は、このほかにも数々ありますが、ここでの説明は控えます。以前に作成した多くの動画で詳細を述べていますので、ご参照下さい。

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墓の大きさ

 ここで大きな問題があります。魏志倭人伝に記された徑百餘歩という大きさです。

まずこの大きさをどう見るかです。中国・魏から使者が自分で歩いてみたのか、あるいは邪馬台国の住人が歩いてみて魏の使者に教えたのか、それは分かりません。

 例えば、魏からの使者が歩いたとしましょう。その場合、当時の中国人の平均身長は170センチ程度だったとされています。そうすると、百餘歩で100メートル前後の直径を持つ円墳となります。

 この仮定に基づいて、邪馬台国の内部から卑弥呼の墓を見つけ出す事にしました。

なお、古代の中国では、左右一歩ずつで合計二歩で、一歩だったケースもあったようですが、そうすると200メートルもの巨大な円墳となってしまい、弥生時代の墳丘墓では有り得ない大きさになってしまいますので、ここでは考慮しません。

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墓の所在地

 では実際に私が卑弥呼の墓を見つけた順序です。

発掘調査が行われた弥生時代の墳丘墓は、最大でも直径50メートルの方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓です。そもそも長さが100メートルもの巨大はお墓は発見されていません。また、円墳の場合には、直径が10メートル未満の小さなものしかありません。そこで、邪馬台国と比定した地域の地図と徹底的ににらめっこしながら、巨大円墳がありそうな地形を探して行きました。この地域は農閑期の冬場に雪が降りますので、平野に盛り土で墳丘墓を作った可能性は低でしょう。それは、多大な土木作業を必要とする時期に悪天候が続き、土砂に水を含み、道路はぬかるみだらけになるからです。そうすると、山間部を切土によって円形に成型した可能性が高いと推測しました。まずは、山の地形から直径100メートルの円墳となっている場所を探しました。

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邪馬台国の地図

 この地図は、邪馬台国・越前を拡大したものです。

この中で、弥生時代の大型の墳丘墓が集中して発見されているのは、三か所です。

弥生時代後期から古墳時代までの数多くのお墓が見つかっている福井県鯖江市エリア。北陸地方最大の四隅突出型墳丘墓・がある福井県清水町エリア。邪馬台国時代の鉄器出土数日本一の林藤島遺跡がある福井県福井市北東部エリア、です。

 しかし残念ながら、地図上では、山間部に直径100メートルの円墳に相当する地形は全く見当たりませんでした。

ただし、唯一それに近い形状をした古墳がありました。それは、林藤島遺跡から南へ1キロにある原目山墳墓群です。

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原目山墳墓群

 この地図は、さらに拡大したものです。

 原目山墳墓群は、JR福井駅の北東部に位置しています。弥生時代から古墳時代までの様々な古墳が密集している松岡古墳群の一角です。

内訳は、64基以上の弥生墳丘墓群で、邪馬台国時代の墓が多数存在する場所です。大きさは、1号墓が縦25メートル、横20メートという方墳。2号墓が縦20メートル、横30メートルという方墳で、弥生墳丘墓としてはかなり大規模なものです。また副葬品も豪華で、鉄製の長刀や碧玉製の管玉など、強力な王族の存在が確実な墳丘墓群ですので、女王・卑弥呼が埋葬されていると見るには十分な副葬品があります。

 このような根拠で、当初はこの地を卑弥呼の墓と比定していました。

 原目山という山の形は、楕円形ではあるものの、直径300メートルほどの円墳といえる形をしています。これも、左右一歩ずつ合計二歩で一歩であるとすれば、大きさも、なんとか卑弥呼の墓に合致すると、都合よく解釈していました。

 なお、2018年にこの地を散策していますので、ご参照下さい。

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卑弥呼の墓の発見

 しかしながら、この原目山墳墓群では形や大きさがあまりにも異なりますので、どうにもしっくりきません。そこで継続して、毎日のように邪馬台国の地図とにらめっこをしていました。すると、原目山から1キロほど離れた場所の平地に、ポツンと円形の小山があるではないですか。雪国にはあるはずのない、平野部の円墳です。しかも直径は100メートル。「ピッタリだ!」思わず叫んでしまいました。あたかも、ガラスの靴がシンデレラの足にフィットしたかのように。

 このように、遂に卑弥呼の墓・丸山古墳にまで辿り着けたのですが、その先がまた長かった。それは、丸山古墳は正式な発掘調査が行われておらず、「調査報告書」が無かったからです。自宅近くの神奈川県埋蔵文化財センターには、山ほどの報告書があるので、暇さえあれば入り浸って読み漁ったのですが、何も見つかりませんでした。これでは卑弥呼の墓と比定するわけには行きません。それでも諦めずにインターネット検索や、現地調査を続けた結果、遂に丸山古墳から弥生時代末期の祭祀用器台が発見されていた事実を突き止めたのです。次回は、その顛末を報告します。