藤原氏の手段

 六世紀の磐井の乱以来、蘇我氏の独裁体制で冷遇され、辛酸を舐め続けた藤原氏(中臣氏)の怨念が、七世紀の乙巳の変で蘇我入鹿の殺害へとつながりました。

 そして、壬申の乱で邪馬台国出身の蘇我氏一族は滅亡しました。

 その後、歴史書再編(記紀編纂)において邪馬台国を歴史から抹殺する手段を選びました。

 蘇我氏一族については極悪人としましたが、邪馬台国については人々の記憶から忘れさせる方法を選んだのです。

 蘇我氏の出身母体の邪馬台国と、邪馬台国から出現した『謎の大王・継体天皇』に対する藤原氏の扱いについて検証します。

藤原氏の手段0
記紀より前の歴史書:上宮記[邪馬台国]

 古事記・日本書紀よりも前の歴史書には、天皇記や国記などがありました。しかしこれらは壬申の乱で、ほとんど焼失してしまいました。その中で、焼失を免れた歴史書があります。上宮記です。

 上宮記は、継体天皇から聖徳太子への出自系譜を中心とした歴史書で、七世紀頃に成立しました。鎌倉時代に書かれた日本書紀の解説書・『釈日本紀』にその引用がなされているので、その頃までは確実に存在していた書物です。

 古事記・日本書紀を編纂するに当たって、この上宮記を無視して歴史を書き換える事は出来なかったはずです。

蘇我氏の手段1
歴史の常識と消された歴史[邪馬台国]

 記紀編纂時に存在していた上宮記を元に、新たな歴史書が書かれた訳ですが、当然ながら藤原氏の意向が反映されました。現代の歴史教科書にも受け継がれている史実として、誰でも知っている常識は、

1.聖徳太子はスーパースター

2.蘇我氏は極悪人

です。近年、これらの再検証が盛んに行われているのは喜ばしい事です。

その陰で、ほとんど無視されてきた史実は、

1.継体天皇の功績

2.邪馬台国の存在

この二点は、藤原氏の蘇我氏に対する怨恨が理由です。それは、蘇我氏一族が越前の大王だった継体天皇の重臣だった事、そして、越前が邪馬台国だったからこそ、無視されました。

藤原氏の手段2
消された歴史[邪馬台国]

 継体天皇についての日本書紀と古事記との記載です。

越前の大王の皇位継承という特殊事情ですので、それぞれ異なる対応をしています。

 

 日本書紀では、継体記に於いて、越前・邪馬台国の大王による王朝交替を悟られないように、事細かく記述しています。壬申の乱の後も存在していた『上宮記』に継体天皇の記述が多かった為、無視できない存在だったのでしょう。但し、あくまでも継体天皇の皇位継承に正当性がある事の言い訳だけに終始しています。功績に関する記述はほとんどありません。

 一方、古事記には継体天皇の記述は、通り一遍です。ほとんど無視した内容になっています。また、古事記・日本書紀に共通して、継体天皇の大革命についての記載がありません。

 近畿地方は五世紀までは古墳時代という黄金期を迎えたかに見えて、実際は周辺諸国から孤立していました。考古学的に、鉄・馬・紙・文字などの先進文明が伝来したのは、継体天皇の時代です。その事実を

記紀では一切記していません。無視しています。あたかも、近畿地方に元々文明があったかのように。

 本来、継体天皇こそ古代史のスーパースターにすべき人物のはずが、藤原氏の邪馬台国への怨念によって掻き消されてしまいました。それに代わってスーパースター扱いされたのが、継体天皇の曾孫で、越前とは縁が無くなった聖徳太子だったのです。

藤原氏の手段3
神話の中の越前:悪者or無視 [邪馬台国]

 邪馬台国は越前にありました。それゆえ、記紀の中では蘇我氏同様に悪者扱いされたり、あるいは無視されたりしています。

 記紀の神話においては、藤原氏の支持母体である九州・高天原が正義の味方であり、主人公です。高天原の天照大御神の弟・須佐之男命は、乱暴者ゆえ追放され出雲に向かいます。そこで戦った相手は、高志の国、すなわち越前の国のヤマタノオロチです。あまりにも有名なヤマタノオロチ伝説が、藤原氏と蘇我氏の対立、正義の味方・高天原と悪者・邪馬台国の描写に顕著に表れています。実在する特定の国を悪者扱いしているのは、ヤマタオロチ伝説だけです。

 さらに、須佐之男命の息子・大国主命伝説では、越前を完全に無視しています。出雲の国を旅立った大国主命は、日本海側を旅し、因幡、但馬、丹波、丹後、に伝説を残しますが、越前は完全に無視されています。越後の姫川の沼河比売(ぬなかわひめ)の話へ飛んでしまいます。高志の国では、古来より越前がナンバーワンの超大国だったので、何らかの神話があってもよさそうなものですが、見事なまでに無視しています。

 これもまた、藤原氏の蘇我氏に対する、すなわち邪馬台国に対する怨念がそうさせたのでしょう。

 古事記の編纂者・太安万侶は、邪馬台国に関する緘口令を敷かれていた中、ヒントを残してくれました。

 ヤマタノオロチ伝説です。

 『高志之八俣』すなわち『越の邪馬台』と、邪馬台国の場所を暗号のように後世に伝えてくれました。

『越の邪馬台』は、継体天皇によって近畿を征服し、奈良盆地南部を『ヤマト』と命名しました。

残念ながら、継体天皇の重臣・蘇我氏と、同盟勢力だった九州・藤原氏の権力闘争によって、邪馬台国の場所が歴史から抹殺されてしまいました。

 

 現代において、邪馬台国のあった越前では、継体天皇が治水工事を行って農地を広げた事になっています。実際の地質調査では、継体天皇の数百年前、つまり卑弥呼の時代には治水工事を終えていたそうです。

 これも藤原氏の陰謀です。蘇我氏から越前の土地を奪い取った藤原氏が、邪馬台国の実績を全て継体天皇の実績として、歴史の上書きをしていたのです。