邪馬台国の港町?纏向遺跡から外海へ。紀伊の国

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの29回目。今回は、紀伊の国に焦点を当てます。本州最南端の串本を有するだけあって、この地域はとても温暖です。みかんの産地として、あるいは徳川吉宗などを輩出した御三家の一つとして有名ですね?

 残念ながらこの地域の古代遺跡には見るべきものがありません。中国大陸から見て日本列島の裏側、近畿地方で最も奥地ですので仕方ありませんよね?

 飛鳥時代からの行政区分である「紀伊の国」は、紀伊半島南部に位置しており、現在の和歌山県全域と三重県南部に跨っています。和歌山県側の紀伊、三重県側の熊野と、二つ合わせて紀伊の国とされていました。

 地図を見ても分かる通り、奈良県南部を含むこの地域は、険しい山々と森林地帯に覆われています。

その為に、水田稲作が広がった弥生時代以降の古代史において、紀伊の国が登場することは、まずありません。

 ただ一つだけ文献史学上で有名な神話があります。古事記・日本書紀に記されている神武東征です。九州・日向の国を旅立った磐余彦尊(いわれびこのみこと)は、瀬戸内海を通って近畿地方・北河内に上陸しようとしました。しかし戦いに敗れ去って、紀伊半島を迂回して熊野に上陸、そこから奈良盆地の橿原に入り、初代天皇になったとされています。

 熊野から橿原に入る? そこは現代でさえも獣道レベルの道路しかありません。有り得ませんね?

まあ、神武東征自体がお伽話ですので、真に受ける事はありませんが。

いずれにしても、お伽話にしか登場できないほど、古代に於いては見るべき所の無い地域。それが紀伊の国です。

 そんな中で、近畿地方の古代史を地政学的に理解しておかなければならない場所があります。それは、和歌山平野です。

本州・四国・九州を横断する「中央構造線」の谷間に形成された土地です。ここを流れる紀の川(吉野川)の堆積作用によって、現代では水田稲作に適した豊饒な沖積平野になっています。

 ところが邪馬台国があった弥生時代末期には、ほとんどが海の底でした。紀の川の中流域あたりが海岸線だった事が分かっています。これは、和歌山平野に限った事ではなく、河川による沖積平野で一般的な事です。

同じ中央構造線に形成された対岸の徳島平野にしても、吉野川の中流域までは海の底でしたし、北部九州の筑紫平野にしても、筑後川中流域までは海の底だった事は有名ですね?

 そんな成り立ちだったが故に、紀伊の国で最も面積の広い和歌山平野でさえも、顕著な弥生遺跡が見つかっていないのです。ただしここで、地政学的にこの地がもっと栄えていてもおかしくないな? という疑問も湧いてきます。

 それは、奈良盆地との関係です。

仮にもし、奈良盆地南部の纏向遺跡に邪馬台国という超大国があったならば、和歌山平野は外海へ漕ぎ出す最高の港になるはずでした。なぜならば、奈良盆地南部とは、目と鼻の先だからです。この間には、風の森と呼ばれる峠がありますが、山すそのような丘のような、極めてなだらかな峠です。古代の様子は獣道だったかも知れませんが、そうであったとしても、纏向遺跡から外海に出るには和歌山平野が最短距離ですし、険しい山道を越えて行く必要もありません。

 大阪湾へ出るとした場合には、大和川を下って河内平野との間の亀の瀬という渓谷を抜け、さらに下って行かなければなりません。それよりも、和歌山から太平洋へ抜ける方がはるかに便利です。

ところが、そういう用途に和歌山平野が使われていた痕跡は、ほとんど見出せません。特筆すべき弥生遺跡がないのです。弥生遺跡どころか、その後の古墳時代の遺跡すら顕著な物はありません。

 これは取りも直さず、弥生時代の奈良盆地には大きな勢力は存在せず、中国大陸との交流は無かった。あったとしても、船を利用した長距離移動は行われていなかった事を意味しています。

 ここで、仮に和歌山平野から北部九州や中国大陸を目指した場合、どの航路が最適だったかを推測します。

まず、瀬戸内海ルートです。これは何度も指摘しています通り、潮流変化の激しい世界屈指の困難な海域ですので、古代の大型船では無理です。それよりも、対岸の四国・徳島平野に上陸して、中央構造線に沿って直線的に西に進み、松山あたりで再度船に乗る方が可能性は高いでしょう。もちろんここにも険しい渓谷が存在していますが、標高が低くて距離が短く、なによりも、瀬戸内海を避けて一直線に九州に向かえるという利点があります。

 この便利な陸路と関係があるかどうかは不明ですが、和歌山平野を流れる紀の川の本当の名称は、吉野川です。徳島平野の吉野川と同じですね? 共に中央構造線上に出来た平野です。古代において、両者は深いつながりがあったのかも知れませんね?

 和歌山から九州を目指すもう一つのルートは、太平洋航路です。太平洋は瀬戸内海に比べて高い波が押し寄せるものの、潮流変化は激しくありません。また、沿岸部であれば逆向きに流れる黒潮の影響を受ける事もありません。

小舟を使った地乗り航法であれば、瀬戸内海航路よりも確実に九州まで辿り着けます。

 なお、四国・土佐の国から出土する弥生土器が、纏向遺跡から出土する土器と似ているとする説があります。真偽のほどは分かりませんが、弥生時代の奈良盆地南部は、土佐から和歌山平野を通って人々が移動して来たのかも知れませんね?

 これは、瀬戸内海・吉備系の弥生土器が河内平野の弥生土器へ影響を与えている事にも共通しています。

 これらのように、奈良盆地から九州へ向かう場合に、必ずしも大阪湾へ出て瀬戸内海を使う必要はなく、むしろ和歌山から出港した方が、四国の陸路や、太平洋航路などの選択肢が増えて便利だったと考えます。実際にこの行路を使った人々の移動も、多少はあったでしょう。しかし頻繁に使われたルートで無かったのは、古代遺跡の出土状況から明らかです。

 そもそも纏向遺跡からの弥生遺物には目を見張るものがありません。そこに大きな勢力が存在していた訳ではないのです。そうすると、和歌山平野の弥生遺跡も、同じようにショボいのも頷けますよね?

 奈良盆地に邪馬台国のような超大国は無かったという事を、和歌山平野は証明しています。

 紀伊の国の弥生時代の遺物としては、近畿地方の他の地域と同じように鉄器の出土はほとんどなく、銅鐸や銅鏃などの青銅器類がわずかにある程度です。これは四国や瀬戸内地域にも言える傾向です。この事から、「近畿地方や四国地方は、中国大陸南部の長江流域との相互交流が盛んだった。」という説を唱える研究者もいます。

 確かに、鉄器は中国大陸北部地域での生産が盛んですので近畿地方への伝播が遅かったと考えられます。また、中国大陸南部では青銅器の生産が盛んでしたので、近畿地方への伝播が多かったとも考えられます。

 すると、水田稲作文化が長江流域から伝播したのと同じように、古代中国人たちが黒潮に流されて四国地方や近畿地方に流されて来たという推論も成り立つでしょう。

 ただし、近畿や四国から中国大陸へ行くには、黒潮の向きが逆になります。満足な帆船の無かった時代に、海流に逆らって1000キロ以上も航海するのは、まず無理です。すなわち、中国大陸南部と、「相互」に交流していた訳ではなく、一方通行だったと見るべきですね。

 紀伊の国では、神武東征の上陸地点・熊野も気になるところです。しかしここも目ぼしい弥生遺跡は何もありません。お伽話なので、当然と言えば当然です。但し、これにも元ネタがあったとすれば、東の国々が近畿地方へやって来た物語をくっ付けたのではないのか? というファンタジーを描く事ができます。なにせ、熊野のすぐ北には、伊勢神宮が鎮座していますから。この地域は、東国勢力が船でやって来て近畿地方へ上陸する交通の要衝です。

 この辺の話は、また別の機会に設ける事にします。

 いかがでしたか?

紀伊の国・和歌山平野は、弥生時代に奈良盆地に邪馬台国があったならば、強力な港町として栄えていた事でしょう。しかしそうはならなかった。それはその後の古墳時代、飛鳥時代、奈良時代も同じでした。奈良盆地の中国大陸との交流窓口は、瀬戸内海でも太平洋でもなく、日本海側だったからです。紀伊の国のような中心地で無かった場所からも、弥生時代の近畿地方の様子が垣間見れますね?

記紀は歴史書ではありません。歴史小説です。

 神武東征については、史実で無い事は万人が認めるところです。では何なのか?という話になると、うまく説明が付きません。何らかの元ネタがあって、そこから初代天皇を正当化する物語が作られたのでしょうが、考古学的な証拠が全く無い為に、ファンタジーを描くしかないですね。

 私の以前の動画で、神武東征は藤原氏一族の東遷の物語である、という推論を立てましたが、もちろん仮説に過ぎません。しかしその物語を作っている最中は、まさにファンタジーにどっぷり浸かっていて、とても楽しかったです。そして多くの皆様から「理に適う」という評価を頂き、歴史作家にでもなったような気分になりました。

 そこで思ったのは、古事記や日本書紀というのは、歴史書ではなく、歴史小説ではないのかな? という事です。

太安万侶や稗田阿礼、舎人親王などの編者は、実は歴史小説家だった、史実に基づいて、楽しい楽しい歴史ファンタジーを書き上げた人達だったのではないのか?と考えます。書いてある内容にはある程度の根拠はあるものの、史実ではないお伽話だというのは明白だからです。

 まあ現代で例えるならば、司馬遼太郎が書いた歴史小説の数々は、史実に基づいたお伽話ですよね?

それが何百年も何千年たった未来に、司馬遼太郎の小説が「歴史的事実である。」なんてトンチンカンな事を言い出す輩も現れるでしょう。

 古事記や日本書紀に書いてある内容が「史実である」という輩は、そんなレベルだと言えますね?

記紀は歴史書ではありません。歴史小説です。