対馬海峡の横断 現実はキビシィ~

 魏志倭人伝の行路では、朝鮮半島から九州への対馬海峡横断は、単に距離を記してあるだけで何の困難も無かったように思われがちです。

 ところが当時の船の性能から見えてくるのは、命がけの航海だった事です。当時の世界の先進国・中国(魏)の技術も、こと船舶に関しては日本(倭国)よりも進んでいたわけではありません。

文献史学だけでは、現代の常識に照らし合わせて当時の現実を見過ごしてしまいます。

 今回は、弥生時代の船舶の技術レベルに焦点を当て、対馬海峡横断に用いられた船を推測して行きます。

現実10
対馬海峡は難しい

 この地図は対馬海峡を拡大したものです。朝鮮半島南端から対馬の北の端まで50キロ、対馬の南の端から壱岐まで50キロ、壱岐から伊万里まで50キロほどです。

 この海峡を流れる対馬海流は、1.5ノット(時速2.8キロ)程度の流速で西から東へ流れています。つまりこの海域にポツンと漂流した場合、黙っていても一時間に2.8キロ、十時間で28キロも流されてしまう事になります。

 もちろん10ノットを超える潮流がある瀬戸内海よりは幾分ましとは言えますが、陸地から遠く離れる「沖乗り航法」となります。自然条件が急変した場合の逃げ場の無い、非常に危険な航法です。さらに古代の稚拙な造船技術では、相当な困難があったのは明かでしょう。

 1800年前の弥生時代、どのような船を使って対馬海峡を渡り切っていたのでしょうか。

原始的な丸木舟?

波よけを施した小型の準構造船?

古墳から出土する埴輪のような大型の準構造船?

帆柱を立てて風を利用する帆船?

あるいは、蒸気タービンの船? ディーゼル機関の船?

はたまたダイアモンド・プリンセスの様な大型豪華客船?

 魏志倭人伝という文献だけでは見えてこない船の種類。現代の常識を当てはめると見過ごしてしまいますが、これを抜きには当時の様子を窺い知る事は出来ないでしょう。

現実20
古代船の現実

 まずは、この中で有り得ない船を削除します。

大型豪華客船、ディーゼル機関の船、蒸気タービンの船、当たり前ですね。

そして帆船。これは弥生時代どころか1200年後の室町時代になってからようやく一般的になった船です。造船技術の進化の歴史を辿れば、弥生時代に存在していたなど有り得ません。もちろん風の力を利用した原始的な帆船はあったかも知れませんが、あくまでも補助動力の役割しかなかったでしょう。

 また、邪馬台国の時代よりも500年後の奈良時代にも、大型の帆船は建造されていません。この時代は遣唐使が中国へ向かう船として、この様な100人以上が乗り込める大型船がイメージされます。しかしこれも妄想でしかありません。造船技術が進歩してきた歴史から、有り得ない話です。例えるならば、江戸時代にダイアモンド・プリンセスの様な大型豪華客船が存在していたと言っているようなものです。

 では、古墳から出土する埴輪のような準構造船はどうでしょうか?

現実30
魏の船

 まずは、この中で有り得ない船を削除します。

大型豪華客船、ディーゼル機関の船、蒸気タービンの船、当たり前ですね。

そして帆船。これは弥生時代どころか1200年後の室町時代になってからようやく一般的になった船です。造船技術の進化の歴史を辿れば、弥生時代に存在していたなど有り得ません。もちろん風の力を利用した原始的な帆船はあったかも知れませんが、あくまでも補助動力の役割しかなかったでしょう。

 また、邪馬台国の時代よりも500年後の奈良時代にも、大型の帆船は建造されていません。この時代は遣唐使が中国へ向かう船として、この様な100人以上が乗り込める大型船がイメージされます。しかしこれも妄想でしかありません。造船技術が進歩してきた歴史から、有り得ない話です。例えるならば、江戸時代にダイアモンド・プリンセスの様な大型豪華客船が存在していたと言っているようなものです。

 では、古墳から出土する埴輪のような準構造船はどうでしょうか?

現実40
内海用

 日本の邪馬台国の時代は、中国では三国志時代です。魏・呉・蜀の争いの中で使われていた船舶を参考にするとよいでしょう。最も有名な水上の合戦「赤壁の戦い」で用いられた船舶が参考になります。これは西暦208年に魏の皇帝・曹操と呉の皇帝・孫権との戦いで、長江の湖北省武漢エリアを戦場とした水上の合戦です。

 残念ながら三国志時代の水軍の資料は、ほとんど残っておりません。そこで、17世紀に書かれた三才図会(さんさいずえ)を元に推測します。

船の大きさは五種類あり大きい順に、「楼船(ろうせん)」「闘艦( とうかん )」「蒙衝 ( もうしょう )」「走舸(そうか)」「赤馬(せきば)」です。いずれも準構造船で、動力は手漕ぎです。

 最も大きな楼船は指揮官が乗る軍船で、二つの軍船を繋ぎ、その上に楼閣を載せたものです。

100人以上の兵士が乗り込める巨大な船ですが、速度は遅く、小回りが効かないしろものです。

 最も小さな赤馬は高速軍船です。二~三人乗りで、偵察用に使用されたり、味方を救出する役目がありました。敵船に乗り込んでいくような奇襲攻撃にも使用される小回りの利く船舶です。

現実41
陸の民 海の民

 これらの船は、外海を航海する船ではなく、内海用でした。長江という巨大な河川ですので流れが遅く、湖と同じように波が穏やかで海流や潮流がありません。船の構造としても、荒波を乗り越えるような構造にはなっていません。この当時の中国の船は、大型の準構造船を建造していたのは確かでしょうが、日本の古代の大型船と比べて特別性能が良かったわけではありません。

現実50
現実

 古代中国というと、どうしても当時の最先端技術を持っていた国と思われがちですが、船に関しては必ずしも日本よりも進んでいたとは言えないでしょう。それは、民族の根底部分の違いです。

 中国を大きく分けると北部は黄河文明に見られるような小麦を主食とする畑作民族、南部は長江文明に見られるような米を主食とする稲作民族です。

どちらにしても農業を主体とした陸の民です。

 それに対して日本は、縄文人という海洋民族を祖先に持ちます。しかも四方を海に囲まれていますので、船による食料調達や長距離移動が当たり前だった海の民です。実際に4000年前の縄文時代には、環日本海を縦横無尽に航海していた民族ですので。外海という荒波や潮流変化を乗り切る技術は、海洋民族である古代の日本人の方が上だったと見るのが自然ではないでしょうか。

 このような時代背景から、魏志倭人伝に於ける魏からの使者が乗って来た船は、古墳時代の埴輪のような準構造船レベルだったと推測します。ただしこの船は、外見こそ立派ですが性能は極めて稚拙です。魏の都・洛陽から朝鮮半島南部の狗邪韓國まではこの船で来れたとしても、強い海流の流れる対馬海峡を横断するのは不可能でした。

 その具体的な根拠は、次回に。

 対馬海峡を渡る行路は、魏の使者が倭国(日本)の水先案内人の指示に従って辿って来た海路だと想像します。それは、中国周辺には航海の難しい海が無い上に、沖乗り航法はその海域の潮流や気候に精通した者でしか成し得ないからです。

 船舶の種類に限らず「航海術」という点でも、倭国(日本)の方が魏(中国)よりも上だった見るのが自然でしょう。

 次回は、対馬海峡を横断する実証実験結果から、船舶の種類や当時の様子を推察して行きます。