山門説 本居宣長の忖度

 筑紫平野の有明海沿岸地域は、多くの邪馬台国九州説論者が比定地としていますが、その中で「山門」は最も人気があります。それは「大和」と発音が同じという単純な理由です。古くは江戸時代の学者・新井白石が提唱したのが始まりです。但しそれは、天皇家に忖度した内容でした。

 今回は「山門」に焦点を当て、弥生遺跡や本居宣長の説について考察します。

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山門の地形

 これは筑後川下流域の南部を拡大した地図です。弥生時代にはこの地域のほとんどは有明海の底でした。ただし湿地帯の多い三角州の複雑な地形でしたので、実際には中州の場所に弥生人が住んでいたようで、幾つかの遺跡が発見されています。

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山門の地形 現在

 この地域が山門と呼ばれた場所ですが、現代では「山門」という呼称は消えて、福岡県みやま市と柳川市になっています。

 この地域の特徴的な弥生遺跡としては、筑後川の中州の位置に、蒲船津江頭遺跡(かまふなつえがしらいせき)、扇ノ内遺跡(柳川市西蒲池)などが見つかっています。また、だいぶ後の時代はありますが女山神籠石(ゾヤマコウゴイシ)という遺跡もあります。

 邪馬台国時代と一致する蒲船津江頭遺跡は、多くの掘立柱建物が見つかっていますので、大規模集落跡だった可能性があります。

 扇ノ内遺跡で見つかった支石墓は、石器時代から世界各地に存在しているお墓で、埋葬地を囲うように支石を並べ、その上に巨大な天井石を載せています。日本でも縄文時代末期からのものが見つかっていますが、この扇ノ内遺跡の時代は特定できておらず、支石墓だったかも知れないという「可能性」にとどまっています。

 女山神籠石(ゾヤマコウゴイシ)は、古代の山城です。かつては邪馬台国の卑弥呼のお城とする説がありました。しかしその後、飛鳥時代のものと判明し、現在ではほとんど注目されていません。

 いずれにしても山門地域は、筑後川による有明海の堆積が進んで水田適地が広がり、古代において大きな勢力があった事を窺わせます。

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江戸時代の学者の説

 この山門地域を邪馬台国であると主張したのは、江戸時代の学者・新井白石です。

邪馬台国論争自体、新井白石が巻き起こしたものですが、最初の頃は、奈良に存在する大和説を説いていました。その後、筑後国山門説を説いたのです。

 さらに、同じく江戸時代の学者・本居宣長も筑後の国・山門を利用して、手の込んだ曲解がなされました。それは、「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも、記紀の熊襲征伐に絡めて、偽者・卑弥呼説を提唱したのです。

 熊襲征伐では、神宮皇后が朝倉地域の羽白熊鷲を征伐した後、山門地域の女酋長・

田油津姫(たぶらつひめ)を征伐しています。土蜘蛛族の巫女で、神功皇后と敵対した女王でした。

 その女酋長が、勝手に本物の神功皇后の使いと偽って、魏への朝貢を行ったとしたのです。かなり面倒くさい曲解ですが、江戸時代という時代には天皇は絶対的な「神様」ですので、仕方が無かったのでしょう。

「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場を取ったわけです。

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現代の御用学者

 新井白石や本居宣長が、もし天皇家に忖度せずに自己主張したならば、抹殺されていたでしょう。江戸時代という時代背景では、御用聞きの学者にならざるを得なかったのでしょう。彼らが現代の歴史教科書に登場するのは、権力者の顔色を伺っていたからこそ、と言えます。

 これは、実は江戸時代に限った話ではありません。現代の歴史学者にも言える事です。日本書紀を唯一の日本の古代史であるとして、天皇家に忖度して日銭を稼いでいる御用聞きの学者が、幅を利かせています。

  エセ古代史家で、明治天皇のやしゃごを名乗る「お坊ちゃま」、エセ歴史作家で東大卒の「おりこうさん」などです。

 私も個人的には、皇室制度は大賛成で、今上天皇は神武天皇からの万世一系であって欲しいと思っています。しかし日本書紀を普通にに読めば、多くの矛盾に気がつくでしょう。古代史を研究する者として、「それとこれとは別」という考え方が必要です。

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山門説の根拠

 話を元に戻します。邪馬台国山門説は、このように江戸時代の論争の初期から候補地に上がっていた場所です。一番の理由は、「やまと」という発音でしょう。言うまでも無く奈良盆地の「やまと」とは、偶然にも同じです。

 現代では、多くの研究者が「山門東遷説」を唱えています。つまり、九州の山門が奈良盆地の大和に移って行ったとする説です。しかし、ここまで来ると奇想天外と言わざるを得ません。

 水田適地はあるものの、有明海の中に浮かぶ中州の僅かな土地しかなく、豪族の規模は小さかったでしょう。そんな土地から遥か遠くの奈良盆地まで、移動して奪い取ったとは思えません。現実にそぐわない、机上の空論です。

 邪馬台国という呼び方は、そもそも新井白石が言い出したものです。900年前に活版印刷技術で整えられた三国志の記述には、邪馬臺国(やまたいこく)ではなく邪馬壹国(やまいこく)となっています。それを新井白石があえて、邪馬臺国(やまたいこく)としたのです。

 その理由は、天皇家に忖度したからに他なりません。「やまと」に近い「やまたい」を使う事で、天皇家の歴史の古さを強調したかったからという訳です。

 次回は、山門と同じように有明海沿岸に位置している八女・久留米地域に焦点を当てます。