日本書紀にある 魏志倭人伝の記述

 古事記・日本書紀をはじめとする日本の古文書には、邪馬台国に関する記述がありません。しかしながら、魏志倭人伝からの引用として、倭の女王が中国・魏へ朝貢したという記載はあります。これは、朝貢に関する記述です。

魏志倭人伝にある卑弥呼の時代に二回、壹與の時代に一回朝貢していますが、三回とも引用されています。そしてその時代は、三韓征伐の女傑・神功皇后の章に記されているのです。これは、日本書紀の編集者・舎人親王が、女王の都・邪馬台国の存在を十分認識していた事の証であり、神功皇后が卑弥呼や壹與をモデルにしていた事を示唆するものです。

あるある10
神功皇后

 日本書紀の中で魏志倭人伝からの引用があるのは、第九巻の神功皇后の章です。神功皇后の活躍については、これまで何度も取り上げてきましたが、ここであらためて概要を整理します。

 神功皇后は、第14代天皇・仲哀天皇の皇后です。日本書紀での諱は気長足姫尊(オキナガタラシメノミコト)で、仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで、初めての摂政として約70年間君臨したとされます。つまり、天皇家で最初の女王だったという事です。先祖は、都怒我阿羅斯等という新羅系の渡来人となっています。

 彼女の摂政政治で都としたのは、近畿地方ではなく北陸・越前の敦賀です。夫である仲哀天皇を奈良盆地からその地に呼びつけ、角鹿笥飯宮にてマツリゴトを行ったとされています。

 彼女の活躍は凄まじく、九州の熊襲を征伐し、さらに対馬海峡を渡って、新羅・百済・高句麗の三韓を征伐したとされています。

 現在での彼女の評価は、単なる神話として語られる事が多くあまり有名ではありませんが、戦前の皇国史観の学校教育では、古代史最大の英雄として知らない人がいない存在だったようです。明治時代のお札や切手に、その肖像画が用いられていた事からも分かります。

 この神功皇后・気長足姫尊(オキナガタラシメノミコト)の章に、魏志倭人伝からの引用があるので、彼女を女王國の卑弥呼、または卑弥呼の宗女・壹與であると比定する学者が多いのです。

あるある20
神功39年

 日本書紀における魏志倭人伝からの引用は、第九巻に四つあります。

年号は分かりやすくする為に、ここでは神功紀とします。

まず女王國から中国・魏へ最初に朝貢した内容です。

神功39年の条に、

「是年太歳己未 魏志云」

「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏 將送詣京都」

「是年太歳己未(たいさいつちのとひつじ)。魏志に云う。明帝景初3年6月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求めしむ。太守鄧夏、吏を遣わし、将(も)って送りて京都に詣らしむ」

とあります。

 魏志倭人伝の記述とほぼ同じです。

唯一年号に違いがあります。魏志倭人伝では景初二年、日本書紀では一年遅く景初三年となっています。これも間違いではありません。女王國の使者が帯方郡に着いたのが景初二年で、都・洛陽に着いたのが景初三年ですので、日本書紀の作者は、それだけよく魏志倭人伝を読んで理解していたという事です。

あるある21
神功40年

 そして、神功40年の条には、

「魏志云 正始元年 太守弓遵遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭國」

「魏志に云う。正始元年、建忠校尉梯携等を遣わし、詔書、印綬を奉じて、倭国に詣らしむ」

とあり、魏から使者が詔書と印綬を持って、倭国にやって来た事が同じように記されています。

 

[2-2]

さらに、神功43年の条に、

「魏志云 正始四年 倭王復遣使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人上獻」

「魏志に云う。正始4年、倭王、復た使大夫伊声者、掖耶約等8人を遣わして上献す」

とあり、二回目の朝貢も魏志倭人伝とほぼ同じ内容が記されています。

あるある22
神功43年

神功66年の条には、魏の後継国である晋の書物からの引用があります。

「是年 晋 武帝泰初2年 晋起居注 云 武帝泰初2年10月 倭女王 重訳貢献」

「是年、晋の武帝泰初2年、晋起居注(しんききょちゅう)に云う。武帝泰初2年10月、倭の女王、重訳貢献す」

これは、西暦266年に卑弥呼の宗女・壹與が、晋へ朝貢した記録です。魏志倭人伝にも壹與からの朝貢の記述はありますが、ここでは晋の歴史書からの引用になっています。

 これらのように、魏志倭人伝などからの引用で、神功皇后の摂政政治の時代に朝貢が行われていた事が記載されているのです。

 そして、神功69年の条には、神功皇后が崩御したとの記述があります。これはつまり、卑弥呼の宗女・壹與がこの年に亡くなった事を示唆しています。

 ただし、日本書紀には、邪馬台国や女王・卑弥呼、宗女・壹與の記載はありません。

あるある23
神功66年
あるある30
無知

 このように日本書紀の魏志倭人伝からの引用を見てくると、卑弥呼や壹與はあたかも神功皇后のように思われます。何よりも、神功皇后の事績のところに魏志倭人伝の資料を挿入した事は、日本書紀の編集者が邪馬台国との関連性を結びつけて考えていた事が窺えます。

 魏志倭人伝には、邪馬台国は女王の都とあります。そうすると邪馬台国の場所は、神功皇后が都としていた越前・敦賀だったことになります。

 神功皇后を卑弥呼や壹與に比定した学者は、畿内説、九州説ともに数多くいますが、どういうわけか邪馬台国の場所を奈良盆地や北部九州へと曲解しています。敦賀が都であった事を完全に無視しているのです。

 どうも近畿地方と九州地方の二極以外は眼中にないか、日本海側の弥生遺跡の豊富さを知らない、という知識の欠如から来ているように思えます。つまり、「無知」なのです。

あるある40
敦賀

 では、神功皇后が卑弥呼か壹與だったとした場合、邪馬台国の場所は越前の敦賀となりますが、敦賀に弥生時代の超大国となりうる資質があったのでしょうか?

 敦賀は、広域的には若狭湾に面していますし、狭い範囲では敦賀湾が形成されています。丹後半島や越前海岸、そして敦賀半島に囲われて、一年中波の穏やかな天然の良港です。古代日本において、この地が交易の拠点、商業の中心地だった可能性は大いにあります。都市国家が成立していたかも知れません。

 しかしながら、食料調達には問題があります。古代国家では、人口の99%以上が農業に従事しており、「食」こそが国家成立の基本です。敦賀は平地の面積が狭いだけでなく、河川による沖積平野ですので天然の水田適地は僅かしかありません。人口扶養力の観点からは、敦賀に巨大な国家は成立しないでしょう。

 ただし、食料の供給源がしっかりしていれば話は別です。現代の東京や大阪のように、農地は無くとも食料の流通網がしっかりしていて、供給源が確保されているのであれば、商業都市は成り立ちます。

  敦賀の場合、北部に広大な天然の水田適地がありますので、そこから船を使って食料を運び込んで、巨大な都市国家が成立した可能性はあるでしょう。

あるある40
弥生遺跡の宝庫

 考古学の視点からは、敦賀を挟むように丹後半島や越前に多彩な弥生遺跡があります。邪馬台国時代の鉄器の出土量は日本一ですし、翡翠などの宝石類の出土も豊富です。この地域に強力な王族が存在していたのは確実です。

 しかし今のところ、敦賀自体には注目すべき弥生遺跡はありません。

 なお、2020年に北陸新幹線敦賀延伸工事で、沓見遺跡という邪馬台国時代の集落遺跡が発見されていますので、今後の神功皇后の存在を裏付ける遺物の発見が期待されるところです。

あるある60
舎人親王

 話を元に戻します。

日本書紀に魏志倭人伝からの引用があるという事は、編集者の舎人親王が邪馬台国の存在を知っていながら、敢えて無視したという事です。この理由は、研究者によって様々な説が唱えられています。

 天皇家が中国に臣下の礼をとって度々朝貢したとなると、天皇家の尊厳に関わる事なので、あえて無視した。

 北部九州の小国が、倭国の代表と偽って朝貢した。

 邪馬台国はヤマト王権の前身なので書く必要が無かった

 邪馬台国はヤマト王権とは別物なので触れたくなかった

などがあります。

 私の説は、「邪馬台国はヤマト王権とは別物なので触れたくなかった」に近いものがあります。

以前の動画で考察していますので、ご参照下さい。

 天皇家に忖度したのであれば、魏へ朝貢した事実をも隠蔽したでしょう。北部九州の小国が偽って朝貢したのであれば、日本書紀の中で明確に否定したでしょう。あるいは、単純に「忘れてしまった」のかも知れません。邪馬台国時代と日本書紀の奈良時代は500年の差がありますので。但し、日本書紀以前にも多くの歴史書が存在していた事を鑑みれば、やはり意図的に隠蔽したと見る方が正しいように思えます。

 私の説は明確です。「奈良時代の権力者・藤原氏一族によって、日本海勢力の歴史が隠蔽された。」