青銅器文化 出雲は後進国

  邪馬台国時代の古代出雲は、青銅器文化の絶頂期にありました。出雲平野から出土した青銅器類は、全国一の多さです。一方で、鉄器文化への移行は遅れていました。

 九州と同様に、鉄器の伝来は早かったものの、その良さを生かせず青銅器に固執していた姿が浮かび上がります。

 邪馬台国・高志の国では、青銅器文化が無い代わりに、鉄器への移行が一歩先んじて

いたので、古代出雲の後進性が窺えます。

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古代出雲の豊富な遺跡群

  この地図は、出雲平野のある島根半島です。

まず、出雲平野での弥生時代後期の主な遺跡を示します。

 銅剣が大量出土した神庭・荒神谷遺跡(かんば・こうじんだにいせき)、銅鐸が大量出土した加茂岩倉遺跡、大規模な集落跡が見つかった古志遺跡群および四絡遺跡群(よつがねいせきぐん)、多くの四隅突出型墳丘墓が発見された西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)、などがあります。

 宍道湖(しんじこ)や中海のある西部地域でも、鉄器が出土した柳・竹ヶ崎遺跡、三重環濠で囲まれた集落跡の田和山遺跡、多くの四隅突出型墳丘墓が発見された荒島墳墓群、などがあります。

 今回は、この内、出雲の弥生文化を象徴する青銅器の 出土が多い二つの遺跡に焦点を当てます。

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神庭荒神谷遺跡

 神庭・荒神谷遺跡(かんば・こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町(ひかわちょう)にある弥生遺跡です。この遺跡からは、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土しています。銅剣の一箇所からの出土数としては最多であると同時に、全国で発掘された銅剣の総数をも超える数です。この358本の銅剣は、すべて、長さ50cm、重さ500gとほぼ同じなので、弥生時代に同じ場所の同じ鋳型で製作されたとみられています。

 この遺跡は、1980年代に発掘調査され、考古学界にセンセーショナルを巻き起こしました。古事記の三分の一を出雲神話が占めている謎と、弥生時代の青銅器文化の中心地だった事実とが重なった為です。

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加茂岩倉遺跡

 加茂岩倉遺跡は、島根県雲南市加茂町岩倉にある弥生遺跡で、前述の神庭・荒神谷遺跡(かんば・こうじんだにいせき)のすぐ近くです。ここもまた、大量の青銅器が出土しています。39個の銅鐸が出土しており、1つの遺跡からの銅鐸の出土としては全国最多です。また、銅鐸に「×」印の刻印がされていました。これと同じ例は、神庭・荒神谷遺跡(かんば・こうじんだにいせき)からの銅鐸でも見られる事から、両遺跡は密接に繋がっていたと見られています。

 銅鐸の中には、顔・トンボ・鹿・猪・スッポンなどの絵を描いた絵画銅鐸が含まれています。但し、邪馬台国・越前の井の向遺跡から出土した銅鐸の、古代船の絵や戦いの絵といった貴重な絵画ではありませんでした。

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かつての青銅器文化圏の区分け

 この地図は、歴史学者・井上光貞氏が1970年代に著した銅剣と銅鐸との分布図です。この頃は、まだ出雲平野の遺跡が発見されていませんでした。

 井上氏は、銅剣と銅鐸の出土数から、単純に九州を中心とする銅剣、近畿を中心とする銅鐸という弥生文化区分を主張していました。ところがその後、前述の出雲平野の二つの遺跡からの銅剣と銅鐸の大量出土があり、この単純な説をひっくり返してしまいました。

 銅剣・銅鐸ともに、中心地は出雲平野であり、九州や近畿地方は、それに追随する存在となってしまったのです。

 もちろん、青銅器は実用性の低い金属です。これをもって出雲に強力な王国が存在していた事にはなりません。しかし、中国大陸文化や朝鮮半島文化の窓口としての役割は、出雲の国が最も重要であった事は確かでしょう。

 出雲と同じような傾向が、九州でも見られます。鉄器の伝来は早かったものの、銅剣を中心とする青銅器文化が弥生時代を通して続きました。鉄器の実用的な利用は進まなかったのです。

 これは、現代の先端技術産業にも通じる事です。過去の成功体験に縛られて、新しい技術の素晴らしさに気付く事が出来ず、受け入れを拒み、やがて衰退して行く・・・。

 出雲や九州が青銅器文化だった事は、ヤマタノオロチ神話で描かれています。

「スサノオが、高志の八俣遠呂智の尾を切り裂くと、自らの剣の刃は欠け、中から大刀が出てきた。」

 つまり、出雲・九州の銅剣と、高志の鉄剣との戦いだったわけです。