うだつの上がらない下積み時代

 こんにちは、八俣遠呂智です。

 邪馬台国はなぜ歴史から消されたのでしょうか?

これは、記紀編纂時の権力者・藤原氏一族の陰謀によるものです。しかし藤原氏自身は、どこの馬の骨とも分からぬ氏族です。中臣氏(後の藤原氏)の始祖は、天児屋命(あめのこやねのみこと)という神様とされており、この一点だけで満足していたきらいがあります。その後の系譜では、中臣鎌足の出現まで何の実績もありません。

 今回は、中臣鎌足に至るまでの藤原氏のショボい実績を考察します。

 日本書紀によれば、藤原氏の始祖は、天児屋命(あめのこやねのみこと)という神様で、日向の国・高千穂に天孫降臨した瓊瓊杵尊に随伴してきた、とされています。この一点から、藤原氏の地盤こそが日向の国であり、神武東征という天皇家の逸話を借りて、近畿地方へやって来た一族であると推測しました。

 しかし、天児屋命(あめのこやねのみこと)の後の系譜は全くありません。三世紀頃の神功皇后の時代にようやく、中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)という人物が登場します。蘇我氏の先祖の武内宿祢と違って、彼は何の武功を挙げる事もない、凡庸な人物でした。

 なお神武東征は紀元前7世紀ですが、これは有り得ない話なので、中臣氏一族が近畿地方へやって来たのは実際には六世紀頃が妥当です。すると三世紀には、まだ日向の国にいた事になりますので、活躍のしようも無かったという事でしょう。

 但し、神功皇后の三韓征伐というのは、考古学的な史料がありませんので、まだ神話の物語です。

では、現実に起こった事件と、それに関わった藤原氏の祖先について考察してみましょう。

 考古学的に実在の確かな最も古い天皇は、第26代継体天皇です。近畿地方を征服して王朝交代が起こりました。この詳細については以前の動画で紹介していますので、ご参照下さい。

 六世紀前半のこの時代からが、神話ではない現実世界となります。では、中臣鎌足が出現する時代までに実際に起こった主な出来事を挙げます。

・西暦507年 越前の大王・継体天皇即位。

・西暦527年 北部九州で起こった磐井の乱

・西暦553年 蘇我稲目による仏教導入

・西暦590年~620年頃の聖徳太子による政治

・西暦645年の乙巳の変とそれに続く大化の改新

・西暦663年の白村江の戦い

これらの中で、中臣氏が活躍したのは、乙巳の変で蘇我入鹿を殺害した事だけです。

活躍したのは、中臣氏ではなく蘇我氏の方です。仏教導入では蘇我稲目が主力、聖徳太子の政治では蘇我馬子が主力でした。

また、磐井の乱では物部氏の活躍はあったのものの、朝鮮半島の利権を失っていますし、白村江の戦いでは、唐と新羅の連合軍に大惨敗していますので、中臣氏がこれらに関わった事にしたくなかったのでしょう。当然ながら何の武功も上げていません。

 さらに、中臣鎌足の息子である藤原不比等の時代になると、

・西暦672年の壬申の乱

・西暦686年に天武天皇の崩御

・西暦712年の古事記の成立

・西暦720年の日本書紀の成立

ここでも大きな活躍はなく、天武天皇が発起人だった日本書紀を成立させたくらいです。

天武天皇とは壬申の乱で反目していた事もあって、ずっと冷遇され続けていました。

そして、天武天皇が崩御してからようやく藤原氏の時代が始まり、日本書紀を成立させたという事になります。

 これらの出来事は、藤原不比等の息の掛かった日本書紀に書かれている事ですので、藤原氏一族がほとんど活躍していなかったのは間違いないでしょう。むしろこれだけ何もないという事は、逆に藤原氏一族が失敗ばかりしていのではないのか? 数々の失敗談を隠蔽したのが日本書紀ではないのか? と勘繰りたくなってしまいます。

 隠蔽された失敗談をほじくり出すのは、簡単ではありません。ただ一点だけ、藤原氏のご先祖様の大失敗とおぼしき逸話があります。それは、磐井の乱における大失敗です。

 磐井の乱は、西暦527年の継体天皇の時代に、朝鮮半島と北部九州で起こった反乱事件です。朝鮮半島へ出兵しようとしたヤマト王権軍の進軍を、新羅の国と結託した筑紫の磐井勢力がはばみました。翌年に、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧されたとなっています。

 この中で、戦いの端緒となった朝鮮半島へ出兵したヤマト王権軍は、近江毛野という人物による6万人の兵を率いてのものでした。しかし、磐井勢力と新羅の連合軍に大敗北を喫しているのです。その後も近江毛野は大失敗を繰り返して、ヤマト王権が持っていた朝鮮半島の利権を失う事になってしまいました。

 この近江毛野こそが、中臣氏の祖先なのではないのか? という疑いがあります。彼はその名の通り、近畿地方の近江の国を地盤とした氏族とされていますが、日本書紀で登場するのは磐井の乱での大失敗の話だけです。

 彼を中臣氏の祖先と疑ったのには理由があります。

九州・磐井勢力が、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した際の出来事です。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされています。つまり、近江毛野は磐井と同じ九州勢力だった事が示唆されているのです。

 中臣氏の地盤は九州・日向の国であり、六世紀の継体天皇が近畿地方を征服した際に、やって来た勢力です。神武東征の行路の通り、北部九州へ行った後に瀬戸内海を通ってやって来ました。この事から、ヤマト王権が朝鮮半島への出兵を決めた際には、最初に近江毛野(すなわち中臣氏の先祖)を選んで出兵させました。なぜならば、九州の地理に明るいからです。しかしながら、数々の大失敗を犯してしまい、信用は地に落ちて、その後の大和王権での地位はどん底にまで落とされてしまったのでしょう。

 この事を中臣氏(すなわち藤原氏)自身が認めて、日本書紀に記すはずはありませんので、近江毛野という人物の名前を借りて、磐井の乱の顛末を記したものと推測します。

 近江毛野こと中臣氏のご先祖様は、その後の百済仏教の導入、聖徳太子の政治には全く活躍する事もなく、ヤマト王権の底辺で冷や飯を食わされていました。そんな中で、蘇我氏一族に反感をもっていた中大兄皇子(後の天智天皇)が、邪な暗殺計画を立てました。その企てに乗っかって、蘇我入鹿を殺害するという殺し屋の役割を果たしたのが、中臣鎌足です。このクーデターは大成功を収めました。ところが、その後の大化の改新で主力となって活躍した訳でもなく、さらにその後の壬申の乱では、天武天皇に反目していました。その為に、天武天皇の時代でも相変わらず冷遇されていました。ところが運よく天武天皇が崩御されたので、一気にヤマト王権での高いポジションを得るチャンスが巡って来た、という訳です。

 日本書紀をそのまま信用すれば、藤原不比等はいきなりヤマト王権の最高ポスト付いたわけではなく、苦労しながら階段を登って行ったことになります。大成功を収めた人物や、大成功を収めた組織は、初期の頃は必ず失敗の連続で、うだつの上がらない状態を長期間経験しているものです。

 千数百年に渡って日本の中枢に居座り続けている藤原氏一族も、ヤマト王権の初期の頃は大失敗の連続でうだつが上がらなかった。けれどもそれを糧にして、最終的には最高の地位に上り詰め、最高級ブランドとなった。

と私は推測します。

 いかがでしたか?

藤原氏一族は、多くの大失敗を経験していた為に、案外謙虚な氏族だったのかも知れませんね? 先祖についても天児屋命(あめのこやねのみこと)という神様だけで満足していたのでしょう。また、いつの時代も、常に風を読む行動を起こしています。傲慢さよりも抜け目なさが際立っています。関東地方が強力な勢力に成長していると見るや、鹿島神宮の宮司が先祖であるとしてみたり、武家社会となるや新興勢力とはちゃっかりと姻戚関係を結んだり。力と力で争うよりも、和をもって国を治める基本が、この藤原氏一族にあるように思えます。