卑弥呼の墓⑪ お墓の内部構造

 卑弥呼の墓を発掘するに当たっては、埋蔵されている宝物を想像するだけでは、何にもなりません。お墓の内部構造を知っていなければ、計画を立てようがないでしょう。

 これまで、卑弥呼の墓は日本最初の横穴式ではないか? と推測しました。さらに今回は、槨と呼ばれる遺体の安置室や、棺の形式について推測します。そこから見えるのは、同じ地域と言えども統一された埋葬形態がなく、様々な特徴がある墳丘墓が分布している事でした。

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有棺

 弥生時代のお墓の内部構造については、魏志倭人伝に一言だけ記載があります。

「有棺無槨」

棺とは、ひつぎの事で遺体を収める箱の事です。

 材料によって甕棺墓、木棺墓、石棺墓などと呼ばれています。その名称の通り、甕型の大型土器を棺として使ったり、現代にも通じる木材で作られた棺や石材で作られた棺を使ったお墓の事です。

なお、棺を使わずに穴を掘って埋めただけのお墓を、土壙墓と呼びます。

 感覚的に分かると思いますが、甕棺墓から木棺墓へ、木棺墓から石棺墓へと進化しました。もちろん、いつの時代も土壙墓は存在します。権力構造の下部に位置する一般庶民は、土に埋められるだけです。また、甕棺墓は北部九州で多く見られる棺の方式で、ほかの地域ではあまり見られません。

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無槨

 一方、槨は棺を安置するスペースの事です。当然ながら権力者のお墓の内部にだけ見られる特別室のようなものです。構造的には、木槨・石槨・粘土槨・礫槨 (れきかく) ・木炭槨などがあります。それぞれ特別室の枠組みを構成する材料によって、名前が付けられています。

 魏志倭人伝には、この槨が無いとされていますが、これは女王国の西の端っこである北部九州の風俗習慣だと考えられます。甕棺墓には槨がなく、そのまま土を被せますので、このような記述になったのでしょう。

 北部九州から遠く離れた女王の都・邪馬台国の埋葬方法を考えるには、「有棺無槨」に囚われる必要はありません。女王国は広域の連合国家ですので、一部地域の風俗習慣が全てに当てはまるわけではないでしょう。

 今回、卑弥呼の墓の内部構造を推測するには、弥生時代にその地域で行われていた方式を参考にして行きます。

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周辺の墳丘墓

  卑弥呼の墓・丸山古墳の周辺にある大規模な弥生墳丘墓をピックアップして調査しました。

東へ1キロにある原目山墳墓群、東へ3キロにある乃木山古墳、南西へ10キロにある小羽山30号墳です。いずれも一辺が30メートル規模で、弥生時代としては最大級の墳丘墓です。また、いずれの墳丘墓からも鉄の刀をはじめとする豊富な副葬品が発見されています。

 なお、これらは弥生時代では一般的な竪穴式の埋葬方法ですので、地面に穴を掘って遺体を入れた後に、上から土を被せる方式です。

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原目山

 まず、卑弥呼の墓から東へ1キロの地点にある原目山墳墓群についてです。

ここには、50基を超える三世紀初頭の弥生墳丘墓があります。大小さまざまで、大きいものでは一辺が30メートル近い、当時としては最大級の墳丘墓も存在しています。

 小さな墳丘墓はすべて土壙墓です。土の中に埋めただけで、棺も槨もありません。

この中で最大の墳丘墓の1号墳には、槨があります。お墓の頂上部から掘り下げる竪穴式で、床には青砂の薄層をしき、側壁に当たるところには河原礫をが断続的にならべて造られています。つまり、礫槨 (れきかく)という事です。残念ながら棺の発見はありませんでしたが、鉄の刀や大量のガラス玉などの副葬品が豊富な事から、位の高い人物だったと見られ、少なくとも何らかの棺には納められていたことでしょう。

 なおこの墳丘墓以外でも棺の出土は無かったものの、割られた竹が散らばっていた事から、割竹型の棺だった可能性もあります。

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小羽山30号墳

 卑弥呼の墓から南西方向へ10キロ離れた小羽山30号墳の埋葬状況です。二世紀初頭の四隅突出型墳丘墓で、一辺が40メートル近くあります。

 この墳丘墓には、明らかな「槨」があります。5メートル×3メートルの穴が掘られた中に、長さ3.7mの組合せの箱型木棺が安置されていました。槨の形式としては、礫槨 (れきかく)と見られます。

 ここでの副葬品には、鉄剣や宝飾品のほかにも、夥しい数の弥生土器も見つかっています。

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乃木山

 卑弥呼の墓から東方向へ2キロ離れた乃木山古墳の埋葬状況です。三世紀中庸の古墳が3基発見されています。最大のもので一辺が30メートルを超えるものもありますが、墳形は不明なのですが、とりあえず帆立貝式古墳のように復元されています。

 ここからは「槨」と呼べるほどの空間はなく、1メートル以下の墓壙が縦方向に掘られ、そこに木棺を挿入する方法が取られていました。

 一号墓では、箱型木棺。二号墓では、舟形木棺が発見されています。

副葬品では、鉄剣のほかにもさまざまな宝飾品がみつかっています。

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ばらばら

 これらのように、卑弥呼の墓の周辺の、同じ時代の大規模墳丘墓と言えども、様々な方法で埋葬されていた事が分かります。共通しているのは、どの墳丘墓も弥生時代では一般的だった竪穴式です。頂上部から真下の位置に棺があるという事です。

 まずこの点について、以前の動画「卑弥呼の墓⑥ 日本最初の横穴式」で考察しました通り、丸山古墳での埋葬方式は、一歩進んだ横穴式である可能性を指摘しました。邪馬台国という超大国のトップに君臨していた女王ですので、ほかの王族の墓よりもランクの高いお墓に眠っていると考えます。

 この場合、お墓の横から坑道を開けて行きますので、必然的に棺は「槨」と呼ばれる安置室に置かれる事になります。木材で作られた木槨、石材で作られた石槨、粘土で作られた粘土槨、河原礫で作られた礫槨、のいずれかの特別室があることでしょう。

 また棺については、木棺以上のものが使われたと考えます。箱型木棺か、乃木山二号墓での、舟形木棺か。さらにもう一つ上の石棺の可能性もあります。この地域の王族の墓は、四世紀の古墳時代に入ると、笏谷石と呼ばれる越前でだけ産出される火山礫の凝灰岩が使われるようになります。

美しい薄緑色で加工もし易かったので、近世に至るまでこの地域だけでなく、日本全国へ搬出されて広く使われた石材です。

 この写真は、六世紀のものですが、原目山墳墓群に近い泰遠寺山古墳から出土した舟形横口式石棺で、この笏谷石で作られています。

 卑弥呼の棺も、もしかするとこの笏谷石で作られたかも知れませんね。

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内部想像図

 この図は、卑弥呼の墓の内部構造の想像図です。

南側の踊り場に現存する神社の裏手に入口があり、そこから坑道が掘られ、お墓の中央部に向かって伸びています。

中央部には「槨」と呼ばれる特別室があり、そこに卑弥呼の棺が安置されています。棺の内部には、骸骨となった卑弥呼が横たわっており、豪華な着物や、銀の印鑑、宝飾品類、鉄剣、銅鏡が収められています。また、卑弥呼の全身には、魏から下賜された丹と呼ばれる赤色の顔料がたっぷりと塗られている事でしょう。

 なお前回の動画の繰り返しになりますが、頂上部から発見された祭祀用器台に塗られた赤色顔料。これが中国産の鉛丹であれば、この場所が99%卑弥呼の墓である事の証明になるでしょう。

発掘プロジェクトに当たっては、いきなり掘り始めるよりも、まず赤色顔料の成分分析から着手して、さらには素粒子ミュオンによる内部透視、という手順で進めるのが、最も確実に思えます。

 卑弥呼の墓は、エジプトのピラミッドのような構造になっていると想像します。丸山古墳の内部は、迷路が張り巡らされており、一度入ると二度と出れない構造です。墓の設計に当たった技術者や内部構造を知り尽くした人物を同時に葬ったかも知れませんね。魏志倭人伝には、「徇葬者奴婢百餘人」とあります。これは、そういう事を意味しているのでしょう。決して丸山古墳を盗掘しようなどとは思わない事。ミイラ取りがミイラになりますよ。