古代出雲の農業 小国林立

 古代出雲の旅は、東から順に、因幡、伯耆、出雲、石見、長門と訪ね、最後に隠岐の島を訪ねました。

 ここでの最大の収穫は、邪馬台国畿内説や九州説では想像もつかなかった環日本海文化圏という、古代の壮大な姿が浮かび上がった事です。

 隠岐の島の黒曜石が、4000年前には既に日本海を渡っていた事実は、衝撃的でした。この一点から、弥生時代の謎が面白いように解明されました。

 今回からは、古代出雲のまとめに入ります。私の説の要である「農業」の視点を中心に、数回に分けて、弥生時代の出雲の国を俯瞰して行きます。

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古代出雲の総括

 古代出雲は飛鳥時代の行政区分では、因幡、伯耆、出雲、石見、長門、隠岐の島から成り立っています。弥生時代の文化的な特徴から、一つの国だったと推定されています。

 今回からの総集編では、次の三つの視点から総括します。

・水田稲作に適した土地であったどうかという、農業の視点

・鉄器、青銅器を中心とした出土品や、集落跡などの考古学的な視点

・古事記や出雲風土記から推測される文献史学的な視点

 

今回は、農業の観点から古代出雲を俯瞰します。

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古代出雲の農業

  これは現代の山陰地方の地図です。この地域は、山間部が日本海ギリギリまでせり出しており、平地が非常に少ない事が分かります。もちろん弥生時代まで遡ったところで、山地が平地だったわけもなく、むしろ湖や湿地帯だらけでしたので、ほんの僅かな農耕地しかありませんでした。弥生遺跡の豊富な地域ですので、「出雲王国」という大国が存在していたイメージがありますが、農業の視点からは全く無理で、小国が林立していた程度だったと想像されます。

 現代の主な平野は、鳥取平野、倉吉平野、米子平野、江津平野、浜田平野、益田平野などがありますが、いずれも狭い平地です。これが弥生時代には、鳥取平野と倉吉平野は汽水湖に覆われていましたし、そのほかの平野はまだ海の底でしたので、沿岸部に僅かに縄文人の営みがあった程度です。

 唯一、大規模の農耕地を期待した出雲平野でしたが、弥生時代には、まだほとんどが汽水湖に覆われていました。現代と比べると、わずか四分の一程度の広さしかありませんでした。

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古代出雲平野

 この地図は、出雲平野を拡大したものです。以前の動画でも紹介しました通り、地質調査などによれば、弥生時代には宍道湖が西へ広がっていただけでなく、西側にも神門水海(かんどのみずうみ)という大きな汽水湖が存在していました。出雲平野は、現在の四分の一程度の広さで、しかも完全に水の引かない湿地帯だったようです。

 このように農業の視点から見ると、弥生時代の出雲の国は、想像以上に小さな勢力だったようです。

 出雲風土記によれば、高志の国から来た人々によって干拓工事・治水工事が行われて、農耕地が広がって行きました。そして、出雲平野の農耕地が拡大して最盛期を迎えたのは、出雲大社が建立された古墳時代中期以降と推定されます。

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遺跡の集中域

 もちろん、縄文時代から弥生時代中期頃の遺跡や出土品は多数あります。これらは、農耕地の少ない宍道湖や中海の南側に集中しており、決して超大国だったからというわけではありません。

 地形的に、日本海側でありながらも島根半島北部の山岳地帯によって季節風が遮られる事や、宍道湖や中海という波の穏やかな汽水湖での安定した海産物収穫、そして東西両方向へ日本海が開けている水運の要衝としての地の利がありました。そのため、狩猟民族の縄文人にとっては重要な役割を担っていた場所だったのでしょう。但し、あくまでも小さな集落群で、「出雲王国」と言えるレベルの大国では無かったと推測します。

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大規模集落跡

 弥生時代後期の大規模集落としては、伯耆の国の妻木晩田遺跡があります。この時期の集落遺跡としては、多少の時代差はありますが、一番大きいのは、奈良県の纏向遺跡、二番目にこの妻木晩田遺跡、三番目に佐賀県の吉野ケ里遺跡となります。

 これらの大集落遺跡に共通しているのは、なだらかな丘陵地に立地している事です。当然ながら、天然の水田稲作に適した土地ではなく、実際、水田稲作が行われていた形跡はありません。

また、いずれの遺跡もその当時は目の前に湖や海が広がっていました。纏向遺跡は奈良湖、吉野ケ里遺跡は有明海、そして妻木晩田遺跡は日本海です。

 要は、これらの遺跡は、新たな農地が拓けていく事を期待して、集まって来た人々の為の、管理窓口だったと考えられます。つまり、明治時代の屯田兵を管理した札幌のような役割だったと想像します。

 農業の視点からは、弥生集落の規模が大きいだけで、丘陵地のような大規模水田稲作に適していない土地であれば、超大国が存在していたとは到底考えられません。

 古代出雲を農業の視点から見た場合、水田稲作に適した平地が非常に少なく、弥生時代の超大国となる要素はありませんでした。出雲風土記に記されている国引き神話や、高志の国からの干拓工事の歴史がある事から、古墳時代中期以降に、ある程度の国力を持ったと考えられます。

 一方で考古学の視点からは、銅剣や銅鐸の出土が日本一多いなど、一定規模の国家の存在も匂わせます。また文献史学の視点からは、古事記の三分の一を占める出雲神話がありますので、日本の古代史を考察する上で、無視できる存在ではありません。

 次回は、考古学の視点からの古代出雲を総括し、考察します。