卑弥呼のご先祖様  古代氏族・息長氏

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの22回目。琵琶湖沿岸地域には、邪馬台国近江説なるものがありますが、一般に論争に登場する事は稀です。ところが、どうやら北部に女王國、南部にライバル狗奴国の勢力があり、琵琶湖をはさんで対峙していたようです。弥生時代の文化圏が、琵琶湖中心部あたりで断絶しているからです。

 今回は、琵琶湖北部に強力な勢力を誇った古代氏族・息長氏を中心に考察します。

 古事記・日本書紀に記されている古代氏族の中に、息長氏という近江の豪族がいます。これは、7世紀の壬申の乱に登場しますし、近世までその子孫が河内の国に存在していましたので、実在性は確かなようです。

 地盤としていたのは、琵琶湖北東部の米原・長浜あたりです。北陸地方の敦賀や、東海地方の関ケ原へ通じる交通の要衝です。

 蘇我氏・秦氏・物部氏などの古代氏族と比べてあまり目立ちませんが、邪馬台国を考える上では避けては通れない氏族と言えるとても重要な存在です。

 まず、卑弥呼のモデルとされる神功皇后との関係です。熊襲征伐・三韓征伐・70年に渡る摂政政治など、申し上げるまでもなく、古代史最強の女傑です。

 日本書紀には、神功皇后記の中に魏志倭人伝からの引用文がありますので、編者である舎人親王が邪馬台国・卑弥呼を強く意識しながら神功皇后を記述したのは、間違いありません。

 また、魏志倭人伝には邪馬台国について、「女王の都するところ」、という記述がありまが、神功皇后が都を置いたのは角鹿笥飯宮、越前・敦賀です。すなわち邪馬台国は越前となります。

 そんな彼女の出自を追って行くと、近江の古代氏族・息長氏に辿り着きます。敦賀とは目と鼻の先の琵琶湖北東部地域です。それを裏付ける証拠が、神功皇后の諱に込められています。つまり、本名ですね?

 古事記や日本書紀には、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、とされています。

 また、父親の名前は息長宿禰王です。これは、彼女を補佐した武内宿禰のルーツをも類推されます。

もちろん、神功皇后は神話の人物ですので実在性云々の議論になると、弱い部分もあります。しかし、神話にも元ネタがあったとすれば、邪馬台国時代の強力な豪族が、越前の国・敦賀と、近江の国・米原あたりを地盤としていていたと見るに無理は無いでしょう。

 記紀編纂時の実力者・藤原不比等にとって、この息長氏はどんな存在だったのでしょうか?

藤原氏が、超優秀な氏族だった蘇我氏を極悪人と捏造したのは有名ですが、息長氏もまた藤原氏にとって不都合な存在だったようです。神功皇后の血族にも関わらず記述量が非常に少なく、「謎の氏族」とも呼べる存在だからです。

この原因は、やはり過去に藤原氏と敵対していた事実があったからのようです。

それは、七世紀の壬申の乱です。

 壬申の乱は、天智天皇亡き後の後継者争いによって近畿地方全域で戦争が起こった事件です。具体的な話は別の機会に述べるとして、人物と地理関係に焦点を当てます。

 天智天皇の時代には、都が琵琶湖南端の大津京に移されていました。天智天皇の息子・大友皇子は、ここを拠点にしました。藤原氏も天智天皇派でした。

 一方、敵対した大海人皇子( おおあまのおうじ)、後の天武天皇は、琵琶湖から峠を一つ越えた関ケ原あたりを拠点にしました。地理的に琵琶湖北東部の息長氏の支配地域を砦にするように、その背後に陣を構えた形です。

 この戦いは近畿地方各地で勃発しましたが、特に琵琶湖西岸での戦いが多かったのが特徴です。つまり息長氏と藤原氏との対立です。そしてここで勝利したのは天武天皇派、息長氏の方でした。

 ところがその後、藤原氏の方は、鸕野讚良(うののさらら)を補佐する立場にちゃっかり居座りました。鸕野讚良(うののさらら)とは、天智天皇の娘であると同時に、天武天皇の皇后でもあった女性です。そして、天武天皇が崩御した後には、この鸕野讚良(うののさらら)が皇位に尽きました。持統天皇の誕生です。

 つまり、敗者であったはずの藤原不比等は、いつの間にやら天皇の補佐役として最高位に上り詰めたのです。さすが藤原氏。冷や飯を食わされていたと思いきや、しぶとく朝廷の高い地位に居座り続けたのです。そして当たり前のように藤原不比等の天下になって行ったのでした。では、藤原氏と息長氏との関係は? 言うに及ばずでしょう。

 本来であれば、琵琶湖北部の強力な氏族として歴史書に記されたはずの息長氏。残念ながら、数ある氏族の中では記述量が少なく、あまりピンとこない氏族にされてしまいました。これも、記紀編纂時の実力者の意向が強く影響したと見るべきです。大和王権の実質的な初代天皇である継体天皇をショボい天皇にしたように、息長氏もまたショボい氏族としたのでした。なお、乙巳の変の蘇我入鹿のような極悪人の扱いではなく、個性の無い凡庸な人物として扱われたようです。

 そんな中で、息長氏から神功皇后へ繋がる重要な系譜、すなわち卑弥呼への系譜が残されたのは、日本書紀の編纂者・舎人親王の意向があったからと考えます。彼は天武天皇の第三皇子であると同時に、天智天皇の孫にあたる人物です。いくら藤原不比等が実力者になったからといって、いくら邪馬台国や卑弥呼の記述を抹殺したかったからといって、皇族の実力者までも自由にコントロールできた訳ではなかったのでしょう。

 こういった経緯で、神功皇后の出自を近江の息長氏としたり、魏志倭人伝からの引用があったりと、日本書紀には僅かばかりのヒントが残された訳です。

 ここまでは、8世紀の記紀編纂時の力関係からの息長氏の立ち位置でした。

では、3世紀の邪馬台国の時代について考えてみましょう。女王國は、日本海沿岸地域の諸国連合国家であり、女王の都するところ邪馬台国は越前、投馬国は但馬・丹後・丹波エリアでした。また女王國の敵国は、南に位置する近畿地方でした。すなわち狗奴国です。

 両者は、若狭湾と琵琶湖を隔てる山地あたりで戦闘が行われていた。とこれまでは考えていました。ところが今回の調査をする中で、邪馬台国の勢力は琵琶湖の北部地域にまで及んでいたのではないか? という考えに至りました。

 新たな考えはこのようになります。

これはすなわち、息長氏の地盤が北近江から越前・敦賀に跨っていたからです。

 考古学的な見地からも、裏付けられます。以前の動画で示しました通り、弥生時代の鉄器の出土が琵琶湖北部地域に集中している事、北西部地域では破砕土器の風習が但馬・丹後・丹波という投馬国に一致している事。などです。日本海文化圏は、琵琶湖の北部にまで及んでおり、伊勢遺跡という琵琶湖南部の大規模拠点集落あたりからが近畿文化圏という、明確な文化的断絶が見られています。

 このように、息長氏や神功皇后という文献史学的な視点と合わせて、この地の勢力図が見えてきます。

 改めて勢力構図を整理します。

諸国連合国家である女王國は、琵琶湖の北部を含む日本海沿岸地域です。その中に投馬国と邪馬台国がありました。投馬国は、但馬・丹後・丹波だけでなく、若狭湾の大半と琵琶湖北西部。邪馬台国は越前だけでなく、琵琶湖の北東部。となります。ライバル狗奴国は、琵琶湖南部からとなります。琵琶湖の中で敵対していた事になります。

 文化的断絶は琵琶湖の中心部で起こっており、近畿地方への最新文明の流れが遮断される事になりました。一方で、東海地方へは、米原から関ケ原へ抜ける経路が息長氏の領域でしたので、自由な往来がありました。それにより東海地方への鉄器の流れ起こって、実際に鉄器が出土した量は近畿地方を上回っているのです。

 ではなぜ、女王國と狗奴国が敵対したのでしょうか?

これも古代国家成立の基本に立ち返れば、明確に見えてきます。近江の国の豊饒な農業生産力です。前回の動画で示しました通り、近江の国の弥生時代の農業生産は突出しています。大和の国や河内の国を完全に凌駕しています。

古代の農業生産力では、日本列島の2トップが越前の国と近江の国でした。

 こんなに美味しそうな近江の農業生産に目を付けたのが、日本海沿岸を地盤とした女王國でした。冬場に大量に積雪のある地域ですので、天気の良い近江の国は、喉から手が出るほど欲しかったに違いありません。そこで、鉄器をはじめとする中国大陸からの最先端技術を携えて、近畿地方に侵略の手を伸ばしたのです。

 女王國と狗奴国との戦いは、琵琶湖という豊饒な農業生産がある地域の奪い合いだったという事です。

 邪馬台国を中心に考えた場合、ライバル狗奴国は悪者、となってしまいます。しかし狗奴国から見れば邪馬台国は悪者です。今回の考察からは、邪馬台国の方が悪者のようにも思えてきました。侵略を始めたのは、どう考えても日本海勢力ですね。近畿地方から日本海側へ侵略を開始する理由は、どこにも見当たりません。それに近畿地方の方が文明が遅れていましたので、そんな力も無かったでしょう。

 そして邪馬台国の侵略が完了したのが、6世紀の継体天皇の時代です。継体天皇もまた琵琶湖北部地域と密接が関係があります。

 大陸文明の玄関口と言える若狭湾ですが、奈良時代の行政区分では三つに分かれています。邪馬台国時代にそんな区分は無かったでしょうが、多少の文化的な違いがあったのだと思います。

 この地域には、敦賀・小浜・舞鶴という3つの大きな港があります。敦賀は越前の国に含まれ、小浜は若狭の国、舞鶴は丹後の国です。この内、敦賀は邪馬台国、小浜と舞鶴は投馬国に含まれていた事になりますね。この辺は古代史においてとても重要な役割を果たした場所ですので、機会があれば特集したいと思います。