卑弥呼の墓 可能性0% 曲解の温床 箸墓古墳

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの10回目。今回は、畿内説支持者が「卑弥呼の墓」と比定する箸墓古墳についてです。

日本書紀に登場する倭迹迹日百襲姫を卑弥呼であるとし、この人物と関係の深い箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとしています。これは明らかに邪馬台国ファンタジーが先行し過ぎて内容が置き去りにされています。文献史に合わせ込んだ考古学の曲解が多い場所です。具体的に内容を考察すると、このお墓が卑弥呼の墓である確率は0%です。

 箸墓古墳は奈良県桜井市にあり、墳丘長278メートルの前方後円墳です。計画都市・纏向遺跡の中に存在しています。

4世紀頃の築造で、奈良盆地に初めて出現した大規模な古墳である事から、「出現期古墳」とも呼ばれています。

 前方後円墳自体は、小規模なものが日本海側各地で3世紀から作られていますので、そこから伝播したと考えられます。平地型で大規模なものとしては、箸墓古墳は日本最古の可能性があります。そういう点から、考古学的に注目を集めている古墳です。

 なお、近畿地方には4世紀以前にも多くのお墓があったと勘違いしている古代史研究家が多いのですが、これは完全な誤りです。奈良盆地や河内平野を中心とする畿内エリアの弥生墳丘墓は全くありません。大規模なお墓が無いどころか、小規模なものさえも存在していないのです。そういう視点からも、4世紀になって突然出現した巨大な箸墓古墳は、特異な存在であり、謎多き古墳だと言えるでしょう。

 箸墓古墳の年代推定は、ほかの古墳と同様に土器の編年によります。当初は、前方部から出土した壺形の土師器が布留式土器であり、4世紀から5世紀のものだった為に、古墳時代前期~中期の古墳であるとされていました。

 ところが1970年頃に、後円部から吉備の国に見られるような特殊器台や特殊壺も見つかったのです。これは吉備における弥生時代末期の典型土器ですので、箸墓古墳もまた弥生時代末期、つまり3世紀の造成であろう、という推定がなされた訳です。

 一般に、時代の異なる土器が出土した場合、より新しい土器の年代に合わせて編年が行われます。当たり前ですよね?

古い土器の時代に、未来の新しい土器を埋める事は出来ませんから。ここで3世紀とした理由は、後円部が3世紀に造成され、後円部は4世紀~5世紀頃に造成された、という曲解でした。これはいけませんね?

 奈良盆地以外でこんな時代推定をしようものなら、考古学の権威たちは、口から泡を吹かんばかりに激怒するでしょう。「有り得ない」と。箸墓古墳だからこそ許されているのです。

 考古学会が近畿中心主義なのは有名な話ですが、さらに何らかの圧力が、時代推定を邪馬台国時代へと曲解させたようですね?

 なお、周辺の古墳からも同じような事例がありますが、こちらは正しい時代推定が行われています。三角縁神獣鏡の大量出土で有名な黒塚古墳や椿井大塚山古墳などで、しっかり4世紀~5世紀とされています。

 箸墓古墳からはさらに、馬具類の出土もありました。一般には馬具類の出土があれば、年代推定は5世紀以降となります。馬が近畿地方へ伝播したのは、ほかの古墳からの出土状況や馬型埴輪の出現期から、5世紀以降とされているからです。これによっていよいよ箸墓古墳も正確な年代推定がなされるかと思いきや、そうはなりませんでした。

 馬具類が発見されたのは、お堀からであり、主要埋葬部である後円部からではない、という理屈です。いやはやしぶといですね? 頑として邪馬台国時代だとして譲る気配はありません。

 なおトンチンカンな古代史研究家の中には、この馬具類の出土を受けて、馬が近畿地方へやって来たのが3世紀の邪馬台国時代だ、と唱える輩もいます。ここまで来ると、収集がつかなくなってしまいますね?

 箸墓古墳がこうも頑固に曲解を続けているのには、理由があります。考古学上、特殊器台が発見された1970年よりも前には、この古墳が4世紀~5世紀という推定がなされていて、誰も異議を唱える者はいませんでした。しかし文献史学上では、ずっとこの場所が卑弥呼の墓であるという推定がなされていたのです。

 日本書紀の神話の中に、邪馬台国・卑弥呼を連想させる人物が登場しており、その人物が埋葬されたお墓が箸墓古墳だという記述があり、そこから派生したファンタジーです。この人物は、現在でも畿内説のアイドルともいうべき倭迹迹日百襲姫命です。第7代孝霊天皇の皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚で知られる、巫女的な女性です。

彼女を卑弥呼とし、埋葬された場所が箸墓古墳とされているので、畿内説支持者の間では、何としても箸墓古墳の時代推定を邪馬台国と一致させたい、という歪んだ思惑があったという訳です。

 1970年に特殊器台・特殊壺の発見があって、これ幸いとばかりに、箸墓古墳の年代推定を3世紀にしてしまったという、なんとも嫌ないわくつきの経歴があるのです。

 文献史学上のファンタジーを、現実的な考古学に当てはめてしまった悪例です。

 仮に、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとした場合、魏志倭人伝の記述との一致はありません。

 魏志倭人伝には卑弥呼の墓について、次のような記述があります。

「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩」

この事から、卑弥呼の墓は直径が100メートル程度の円墳であると推測できます。

 箸墓古墳は、墳丘長278メートルもある上に、前方後円墳です。全く一致していませんね?

ところがこの古墳をなんとか卑弥呼の墓にしてしまいたい論者は、様々な曲解を唱えています。主な所では、

・箸墓古墳の埋葬部は、後円部である。特殊器台もそこから出土している。前方部は後の時代に作られたものだ。従って、後円部だけなら直径130メートルなので、魏志倭人伝に一致している。

あるいは、

・当時の中国の一歩は、左右の足が進んで一歩だ。現代でいう二歩に当たる。従って、200メートル程度のお墓が推測されるので、箸墓古墳の長さは妥当である。

 との事です。いやはやなんとも?

ここまで曲解すると、ご苦労様と言いたくなります。

 これらのように、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性は、ありません。

また、纏向遺跡の中にあるホケノ山古墳や勝山古墳も該当しませんし、三角縁神獣鏡で有名な黒塚古墳や椿井大塚山古墳も4世紀以降の築造です。

 繰り返しになりますが、奈良盆地には弥生時代の大型のお墓は無いのです。大型に限らず、小型の墳丘墓すらもこの地に存在していないのです。

卑弥呼の墓を探すファンタジーもいいですが、現実をしっかり見れば、奈良盆地にそんなものは100%有り得ません。

 いかがでしたか?

邪馬台国畿内説支持者の方々から、よくこんな批判のコメントが寄せられます。

「お前が主張する越前には、弥生時代の大きなお墓は無いだろう。越前説は有り得ないね。」

弥生時代の大きなお墓が無いのは、奈良盆地の方です。畿内説の方は、古墳時代に巨大古墳があるから弥生時代にもあったはずだ、という先入観に支配されているようですね。奈良盆地の弥生時代の遺物を一つ一つ丁寧に調査して、自説を主張しないと恥ずかしいですよね。