魏の年号入り銅鏡 女王國の中にある

 邪馬台国時代に魏から下賜された銅鏡はなに? という議論の中で、あまりテーブルに上らないのが、魏の年号が入った鏡(紀年銘鏡)です。これは、「景初四年」という実際には存在しない年号が記された三角縁盤龍鏡がある事から、日本国内製であるという意見が大勢を占めているからです。但し、紀年銘鏡が日本国内製であるという科学的な根拠はありません。今回は、魏の紀年銘鏡が、私の主張する女王國域内から出土している事実を示し、これらの銅鏡こそが邪馬台国が魏から下賜されたものであると主張します。

年号00
年号入り銅鏡

 中国・魏の年号を銘文中に含む銅鏡を、紀年銘鏡と呼びます。日本列島では、8点発見されています。

この時代、すなわち弥生時代末期の物と思われる銅鏡は、トータルで800点近くの出土がありますので、その中で魏の年号が入った銅鏡は、たったの1%に過ぎないという事です。

 これらの多くは古墳時代前期の古墳から発見されており、邪馬台国の時代とは100年ほどのズレがあります。

また、この中の1点については、「景初四年」という年号が記されていますが、景初という年号は三年までしかありません。これらの事実から、「紀年銘鏡は日本国内製」という解釈が大勢になっています。

しかし私は、これこそが邪馬台国時代に魏から下賜された鏡であると推測しています。

 理由は二つあります。

第一は、800点の中の僅か8点という希少性です。日本でも古墳時代ともなれば、鋳型を取って大量のコピー品も作れた筈ですが、紀年銘鏡にはそれが無い事。

 そしてもう一つは、年号が入っている事の重要性です。現代でも、公文書・私文書問わず、日付の入っていない書類は無効です。いつ作られたものかが書かれていない文物は、いつの時代も軽く扱われます。

弥生時代においても年号が入った銅鏡の価値は、入っていないものとは比較にならない重要性があったものと考えるからです。

年号10
年表1

 では、邪馬台国時代に中国・魏の国から下賜された銅鏡を、年表で確認しておきます。

 魏志倭人伝に記されている内容によれば、つぎのような年代と順序になります。

西暦238年(景初2年)6月 女王・卑弥呼の使者・難升米は、朝鮮半島の魏の植民地・帯方郡に、魏へ朝献を申し出る。

同年

西暦238年(景初2年)12月 魏から朝献の許可が下りたので、帯方郡の太守と共に洛陽へ行き、一回目の朝貢を行う。

西暦239年(景初3年)魏の皇帝 崩御

西暦240年(正始元年)皇帝齋王芳の命により、下賜品が渡される。

西暦243年(正始四年)12月 女王・卑弥呼、魏へ二回目の朝貢を行う。        

西暦245年(正始六年)邪馬臺國の難升米は皇帝齋王芳から黄幢を渡される。

 

倭国から中国・魏へ朝貢は、卑弥呼の時代に二回、壹與の時代に一回行ったと記されていますが、魏から倭国への下賜品に関する詳細は、西暦240年(正始元年)のみで、その中に「銅鏡百枚」と記されています。

そこで、魏の紀年銘鏡は正始元年以前のものと推定されます。

 なお、西暦235年(青龍三年)の年号が記された銅鏡も出土しています。

年号20
正始元年

 正始元年以前の魏の紀年銘鏡は、八点です。

最も古い、青龍三年銘の方格規矩四神鏡が二点。

景初三年銘の三角縁神獣鏡が一点と、画文帯神獣鏡が一点。

景初四年銘の三角縁盤龍鏡が一点。なお、この年号は実在していないので、「日本国内製である」、などの様々な説が唱えられています。

正始元年銘の三角縁神獣鏡が三点です。

年号30
出土地

 これらが出土した地点をプロットして行きます。

最も古い青龍三年銘の方格規矩四神鏡は、京都府峰山・弥栄町の大田五号墳と、大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土しています。

景初三年銘の三角縁神獣鏡は、島根県加茂町の神原神社古墳から出土しています。

景初三年銘の画文帯神獣鏡は、大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳から出土しています。

景初四年銘の三角縁盤龍鏡は、京都府福知山市の天田広峯遺跡から出土しています。

正始元年銘の三角縁神獣鏡は、山口県周南市の竹島家老屋敷古墳、群馬県高崎市の柴崎蟹沢古墳、兵庫県豊岡市の森尾古墳から、それぞれ出土しています。

 一見、日本列島各地から出土しているように思えます。ところが、これに私の説の女王國の領域を重ねてみます。

 すると、八点中五点が女王國の範囲の中で見つかっているのです。

 また、大阪府高槻市の安満宮山古墳は、越前の大王・継体天皇が都とした樟葉野宮のすぐ近くで、継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳との中間地点に位置しています。この古墳からは銅鏡の他にも、弥生時代の近畿地方では極めて珍しい鉄の刀が出土しています。これらの事から、安満宮古墳の被葬者は、継体天皇が越前から近畿地方を征服した際に、随伴してきた重臣の墓である推定します。鉄器王国である越前から持ち込まれた鉄の刀と共に、魏から下賜された方格規矩四神鏡も持ち込まれたのではないでしょうか。

 一般にこのような鏡を、「伝世鏡」と呼びます。伝世鏡とは、古墳に副葬されている鏡のうち、長い間使用されたのちに納められた鏡をいいます。つまり大元の所有者が長い間保有し、違う場所にやって来た後にお墓に埋葬された鏡という事です。

 この考え方は、出土品の時代をいかようにも解釈されてしまう危険な手段ではあります。しかし、安満宮山古墳の出土品については、状況証拠として十分ではありませんが、必要条件は満たしていると考えます。

年号40
出土地2

 一方、群馬県の柴崎蟹沢古墳からも紀年銘鏡が出土しています。

北関東のこの地域一体は、埼玉県の稲荷山古墳をはじめとする強力な豪族が存在していた場所です。

また、古墳時代には、騎馬民族である高句麗からの多くの渡来人が住み着いたとされる場所です。群馬という地名が、馬が群れている豊かな土地だった事を意味し、この地方が古くから馬に関係あったことはよく知られています。また、埼玉県には高麗川という地名が残っており、高句麗からの渡来人たちによって開拓されたとされています。

 このように北関東には、騎馬民族・高句麗が大きく関わっているのです。

 では、高句麗からの渡来人はどのように北関東にやって来たのでしょうか? それは、対馬海流がぶつかる北陸地方から峠を越えてやって来たと考えるのが自然でしょう。

 北関東地方もまた日本海側勢力と強く結びついていたと見れば、柴崎蟹沢古墳の紀年銘鏡も、日本海側勢力だった女王國からの「伝世鏡」と推測しても、矛盾はないと考えます。

年号50
魏からの下賜品

 これらの事から、邪馬台国時代に魏から下賜された銅鏡は、魏の年号が入った鏡(紀年銘鏡)であると推測します。

種類としては、方格規矩四神鏡、三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡、三角縁盤龍鏡の四種類とも魏からの下賜品です。

このうち三角縁神獣鏡については、古墳時代という後の時代に年号を消された上で、コピー品が日本国内で大量に作られ、近畿地方を中心として全国に広がったのでしょう。ランクの低い、いわば安物の鏡です。

 では、最もランクの高い鏡はなんでしょうか?

現時点では分かりません。この四種類以外のものかも知れません。卑弥呼の墓が発掘調査されて出土する鏡こそが、最高ランクの鏡であり、魏から下賜された百枚の銅鏡の内の一枚であると推測します。

 銅鏡の出土地の議論では、三角縁神獣鏡という古墳時代に近畿地方から出土する鏡にばかり注目されています。そして、中国製か? 日本製か? という事に執着しているのが現状です。紀年銘鏡という、魏の年号が入った価値の高い銅鏡の分布に注目すれば、女王國の勢力範囲が見えて来るのではないでしょうか。邪馬台国は近畿か? 九州か? という二者択一の偏狭な視点では、何も見えてこないでしょう。

 次回は、三国志時代の中国からの鏡の出土地について、呉の鏡を含めて調査します。