沖縄説 行路と特産品に可能性あり!

 邪馬台国が沖縄にあったという説があります。これは、魏志倭人伝に記されている行路の方角が正確だとした場合に、まさに沖縄あたりに辿り着く事を根拠にしています。そして、七萬餘戸という超大国だった事も、海底遺跡の憶測から可能だとしています。今回は、奄美群島、 沖縄諸島などの南国の弥生時代の遺跡や、九州島との交流関係を調査してみました。現実から逃避して壮大なファンタジーを描けば、邪馬台国沖縄説の可能性がないこともないでしょう。

 魏志倭人伝を素直に読めば、邪馬台国は沖縄辺りの島にたどり着くというのは、よく指摘されることです。それは、九州島の不弥国から方角を正確に辿って行くと、大きく南へ進んで行きつく先だからです。

 邪馬台国への順路を示しますと、九州島の上陸地点の末蘆国から、東南へ500里で伊都国、東南へ100里で奴国、東へ100里で不弥国となり、九州島の山の中になります。

 そこから南へ水行20日で投馬国となりますので、船を使い川を下って有明海に抜け、点々と港を渡り歩きながら鹿児島あたりに行きつきます。

 さらに南へ水行10日で島々を渡りながら進み、邪馬台国に到着します。

方角を正確に辿ったこの行程からは、邪馬台国の場所は、奄美群島か沖縄諸島になります。

 ただし、投馬国から邪馬台国へは、陸行1月という記述もありますので、それとの一致はありません。

 魏志倭人伝の倭国に関する風俗・習慣には、南国の島々のものと一致している記述があります。

 一年中温暖であり冬でも海に入るという記述や、体中に入れ墨が施されているという記述は、南の島々のものと一致しています。

 ただしこれは、あくまでも倭国の風俗習慣であり、邪馬台国がそうだとは書いてありません。あくまでも、邪馬台国も属していた諸国連合の「女王国」に関する記述ですので、沖縄諸島あたりも、倭国に含まれていたと推定するに留まります。

 仮にもし沖縄が邪馬台国だった場合、九州全域を支配下に置いていなければなりません。なぜならば、中国・魏へ朝貢する場合に必ず通過しなければ朝鮮半島に渡れないからです。

 これを証明するには、弥生遺跡からの出土品が考えられますが、これは存在しています。

ゴホウラという南国でしか産出されない貝が、九州の弥生遺跡から多数出土しているのです。

ゴホウラ貝とは、奄美大島以南の、水深10m程度の珊瑚礁に生息する貝で、殻高約18cm、殻質は重厚なものです。

 弥生時代初期から九州北部などでゴホウラの殻を縦切りにして製作した貝輪が見つかっています。特に、宝石類や鉄剣・銅剣などの威信財と一緒に見つかるケースが多いので、権力者のステータスシンボルであったと考えられています。

 また、沖縄本島などでこの貝輪を生産したとみられる遺跡が多数知られており、ここで加工されて運ばれたものと考えられます。

 一方、逆方向はどうでしょうか? つまり九州から沖縄などへの物品の流れです。

これも存在します。

 弥生時代の九州とのコンタクトを示す沖縄側の例として、山ノロ式弥生土器が現在三〇箇所以上の遺跡から出土しています。山ノロ式は、鹿児島県の大隅半島南部の遺跡から出土した弥生土器ですので、北部九州との交流とまでは言えませんが、確実に南国の島々を渡って来た事には間違いありません。

 また、弥生時代よりも前の縄文時代には、黒曜石の流れもありました。黒曜石は黒い色をした岩石で、割ると鋭い破片が現れるので、縄文時代にはナイフのような役割として広く使われていた石です。この黒曜石の中でも、佐賀県伊万里市の腰岳から産出される石が、沖縄本島から見つかっているのです。

 最後に、邪馬台国であるとの証明になる農業事情です。

 魏志倭人伝の邪馬台国に関する記述には、七萬餘戸もの超大国であるとの記述もありますので、それに見合うだけの農業生産が必要です。人口爆発が起こった弥生時代において、規模の大きな国家が成立する必須条件としては、大きな水田適地が必要です。

 しかし残念ながら奄美群島や沖縄諸島には、大規模な農業を行える平野はありませんし、人口扶養力が格段に高い水田稲作は、その当時は行われていませんでした。

 これに対して、邪馬台国沖縄説を唱える論者は、かつて大陸がありそこで農業生産がおこなわれており、巨大な帝国があったとしています。失われたムー大陸みたいですね。

 確かに北谷(ちゃたん)沖に海底遺跡がありますが、それを拡大解釈すればなんとか・・・。ファンタジーとしては面白いと思います。

 邪馬台国沖縄説。いかがでしょうか? 至る所に無理があるように思えますが、ファンタジーとしては一番面白いかも知れません。北部九州での沖縄産ゴホウラ貝という威信財の出土などは、新潟県糸魚川産の翡翠勾玉と共通するものがありますので、弥生時代には何らかの交流があった事は間違いないでしょう。近畿地方や四国地方の特産物は、北部九州で見つかっていませんので、畿内説や四国説よりも沖縄説の方が可能性が高いように思えます。