藤原氏が消した邪馬台国と翡翠

 八俣遠呂智へようこそ。

  邪馬台国が古事記や日本書紀に登場しない理由は、当時のヤマト王権にとって不都合な存在だったから、そして蘇我氏の出身母体だったから、と推測しています。前回までに、蘇我氏の先祖・武内宿祢から滅亡するまでの蘇我氏本宗家の地盤、について考察しました。しかしこれは、あくまでも日本書紀という文献史からの推測でした。今回は、考古学的に蘇我氏の地盤はどこだったかを調査してみました。そこからは、歴史から消された邪馬台国だけでなく、ある物も記憶から消された事実が浮かび上がりました。

 滅亡した蘇我氏本宗家の考古学的な史料は限られています。それは、蘇我氏はあくまでもヤマト王権の配下であって、天皇家に仕えていた立場でしたので、どんなに顕著な出土品があろうとも天皇家のもの、という推察がなされてしまうからです。中世・近世ならともかく、古代の一豪族の考古学的な検証は非常に難しいものがあります。

 そんな中で、ヒントになるような考古学史料が2点だけ存在します。それは、石舞台古墳と翡翠硬玉です。

 蘇我氏のお墓と言えば、奈良県明日香村にある石舞台古墳が有名ですね? 古墳時代後期のお墓とされています。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されていますが、その父親の蘇我稲目の可能性もあります。正確に蘇我氏のお墓とは断定できませんが、この近くに蘇我氏の氏寺である法興寺の後身である「飛鳥寺」があることや、規模の大きさなどから蘇我氏一族の墓だという推測がなされます。

 この墓の一番の特徴は、巨大な岩石によって玄室と呼ばれる横穴式の石室が設けられていることです。総重量が2300トンにも及んでおり、他に類を見ない規模です。

通常の玄室であれば、大きくても江戸時代のお城の石垣程度の大きさですので、異常に大きいことが分かります。また、この時代のお墓であれば盛土によって玄室が隠されるのが普通ですが、ここは剥き出しになっています。かつては土に覆われていたのではないか?という説もありますが、はっきりした事は分かっていません。

 とても個性的な墓ではあるものの、ここから分かる事は、あまり多くありません。

まず、埋葬方法です。高句麗などに起源を持つ横穴式埋葬ですが、古墳時代後期にはすでに一般的になっていましたので、特筆すべきものではありません。

形状はシンプルな方墳と見られます。あるいは高句麗に起源を持つ四隅突出型墳丘墓の可能性もありますが、時代的に500年ほどの差がありますので、現実的ではないでしょう。

そして構造です。盛土ではなく石を用いており、支石墓と呼ばれる構造に似ています。これは世界的に見られるもので、特に紀元前の朝鮮半島に多く見つかっています。しかしそれらに使われていた石は、石舞台のような巨大なものではありませんでした。

 これらのように、石舞台古墳はあまりにもユニークで唯一無二の存在です。そして副葬品は、ほとんどが盗掘されていましたので、ここから蘇我氏のルーツを辿るのは、かなり困難です。敢えて言うならば、「高句麗がルーツの可能性がある」、「高句麗と関係の深い日本海側の勢力かも?」、という程度です。

 では、もう一つの考古学的資料である「翡翠」について考えてみましょう。

これについては、以前の動画「消えた翡翠 消された邪馬台国」にて考察していますが、再度検証してみます。

 翡翠(特に価値の高い翡翠硬玉)、については、縄文時代から弥生時代、古墳時代を通して、権力者の威信財として日本全国から多く出土しています。この翡翠の99%は、新潟県糸魚川産とされています。上流域の姫川に翡翠硬玉の鉱脈があるからです。

 ところがつい近年まで、出土した翡翠はミャンマー産であると、強く信じられていました。昭和初期に翡翠鉱脈が再発見されるまでです。糸魚川に鉱脈がある事は、なぜかずっと忘れ去られていたのです。

 これは、歴史から消された邪馬台国と非常によく似た流れを辿っていますね?

古事記や日本書紀が編纂された時代から、プッツリと翡翠が使われなくなり、人々の記憶からは翡翠鉱脈の在りかさえも、忘れ去られてしまったのです。瑪瑙や碧玉、ガラス玉といったほかの宝石類は、その後もずっと使われ続けていたのとは対照的です。

 これもまた、蘇我氏と藤原氏の対立が招いた悲劇であると推測します。

 縄文時代から飛鳥時代に至るまで、最高級の宝石として日本列島のみならず、朝鮮半島や中国大陸からも出土している翡翠硬玉ですが、最後に翡翠の加工品が確認されているのは、飛鳥時代の法興寺(現在の飛鳥寺)からの出土です。

 法興寺は、日本書紀にも記されている蘇我氏の氏寺で、奈良県明日香村にあり、石舞台古墳のすぐ近くです。ここには、蘇我入鹿の首塚も存在しています。

 この法興寺の塔の心柱の礎石部分から、大量の宝物が出土しました。その中に糸魚川産翡翠の勾玉も含まれていました。そしてこれを以って、それ以降の翡翠の加工品の出土は、この世から一切無くなったのでした。

 この事からの推理です。蘇我氏一族は、北陸地方が地盤であり、糸魚川産翡翠の利権を独り占めしていました。ヤマト王権で確固たる地位を築けたのも、翡翠という莫大な財源があればこそだったのです。ところが、乙巳の変で、蘇我入鹿が殺害され、父親の蘇我蝦夷は自害してしまいました。それによって翡翠の利権はどうなったと思いますか?

普通に考えれば、乙巳の変の勝者である中臣氏(後の藤原氏)のものになったはずです。ところがそうはならなかった。

 蘇我氏によって固く守られてきた翡翠鉱脈の秘密。その秘密を藤原氏が知る事は出来なかった、としか考えられません。

 では、翡翠の鉱脈が忘れ去られた理由を、物語風に考えてみます。

 飛鳥時代において中臣氏(後の藤原氏一族)は、乙巳の変の際に、国記・天皇記などの蘇我氏によって書き溜められた歴史書を焼き払いました。そしてヤマト王権の中心人物へと上り詰め、新しい歴史書を編纂しました。それが、古事記であり日本書紀です。

 歴史は勝者によって書かれますので、当然ながら藤原氏に都合の良いように記紀は編纂されました。自らの出身母体である日向の国を天皇家の先祖としたり、蘇我氏本宗家を徹底的に悪者扱いしたりしました。そして、邪馬台国や卑弥呼に関する記述を完全に無視しました。それは、邪馬台国がライバル・蘇我氏一族の出身母体だったからです。

 古事記や日本書紀は、このような流れで書かれたと推理します。

 では蘇我氏が財源としていた翡翠についても、同じように歴史から消し去ったのでしょうか? それは考えられません。なぜなら、古今東西・権力者というのは、とにかく利にさとい生き物だからです。自分の地位を盤石にするために、財源が必要であり、利権を追いかけるのが常です。蘇我氏を滅ぼした藤原氏ですが、翡翠という利権があれば、当然のように自分のものにしたはずです。ところがそうはしなかった。いや、することは出来なかった。それは、・・・。

情けない事に、翡翠鉱脈がどこにあるか分からなくなってしまったからです。

 重要な財源である翡翠の鉱脈は、誰でも知っていたわけではないでしょう。他者に知られて横取りされる危険性を常に感じながら、重要機密として隠蔽していたはずです。知っていたのは、蘇我氏本宗家の一部の者と、採掘労働者程度だったのではないでしょうか?

 やがて、蘇我氏本宗家は滅ぼされてしまいますが、翡翠鉱脈という重要な秘密は保持されたのでした。秘密を知る一族の者は、本宗家自らが口封じを行ったのです。

 つまり、藤原氏一族に利権が渡るくらいなら、翡翠鉱脈の秘密を知る者たちを自ら闇に葬る、すなわち皆殺しにしてしまった!、というわけです。こうして、糸魚川に翡翠鉱脈がある事は、藤原氏一族をはじめ誰にも知られる事なく、飛鳥時代には綺麗さっぱり忘れ去られてしまったのです。そして、昭和の初期まで誰も知る事は出来なかった。という訳です。

 いかがでしたか? 邪馬台国と翡翠。共に人々の記憶から消されたミステリー。

 翡翠鉱脈が忘れ去られた物語は、もちろん、私の創作に過ぎません。しかし、邪馬台国が歴史から消された事実と、翡翠が歴史から消された事実とが、あまりにも一致しているとしか思えないのです。飛鳥時代に起こった乙巳の変、大化の改新、壬申の乱、などの動乱期に、歴史書が焼失させられましたが、これと蘇我氏の財源の翡翠鉱脈とが、密接に結びついていると考えます。そして翡翠の鉱脈と同じように、邪馬台国もまた、蘇我氏の地盤の北陸地方にあったと推測します。