伊勢神宮は古代の海の要衝 最重要拠点だった

 こんにちは、八俣遠呂智です。

東海シリーズの2回目。今回は、初代天皇である神武天皇が上陸した熊野や伊勢の国、伊賀の国について考察します。熊野は飛鳥時代からの行政区分では近畿地方の紀伊の国の一部になっていますが、現代では東海地方・三重県に含まれています。伊勢神宮がある北側の地域と合わせて、近畿と東海とを分ける分岐点のような場所です。

 古代のこの地域を俯瞰してみると、「なぜ伊勢神宮がそこに?」。という疑問に対する答えも見えてきます。

 東海地方については、残念ながら邪馬台国と結び付くような考古学的史料、文献史学的史料は、ほとんどありません。邪馬台国畿内説を唱える人達の間では、ライバル狗奴国が東海地方である。とする説が多いようです。もちろん根拠らしい根拠はなく、たまたま近畿地方の隣にあるから、という程度のものです。

 それでも、強いて古代史と結びつけるならば、初代天皇が奈良盆地に入る際の上陸地点である熊野と、天照大神が祀られている伊勢神宮でしょう。

 まず熊野ですが、ここは日本列島で最も降水量が多い地域として有名ですね? 春夏秋と、太平洋から南の暖かくて湿った空気が流れ込みやすい地形をしているのが要因です。

 この地図をみても分かる通り険しい山々が連なっており、現代でも熱帯雨林のようなジャングル地帯になっています。

 古事記や日本書紀の神武東征の記述では、こんな場所に上陸して奈良盆地の橿原まで侵略した事になっています。

これはまずあり得ませんね? 現代でさえも獣道程度の道路しかありません。ましてや弥生時代の状況は?

 所詮は神話ですので、正確性を追求しても意味がありません。ここでは、何らかの元ネタがあったとして、それが何だったのか? という事を考察します。

 そもそも神武東征の物語は、縄文時代の紀元前7世紀とされていますので、年代的に有り得ません。また、世界屈指の困難な海域である瀬戸内海を渡って来たというのも無理があります。元ネタがあったとすれば、大型船の建造技術の進化から考えて、せいぜい5世紀頃の出来事だと見るのが自然でしょう。さらに、九州・日向の国から、近畿の北河内にやって来たというストーリーから、馬飼集団が近畿地方へやって来た物語りがベースになっていると推測しました。なぜならば、馬の繁殖適地である日向と馬牧場があった北河内という共通点や、近畿への馬の伝播が5世紀頃である、という時代的な一致も見られるからです。

 このような状況から私は、神武東征は記紀編纂時の実力者・藤原氏一族の東遷の物語であるとの仮説を立てました。この詳細については、以前の動画で述べていますので、ご参照下さい。

 そんな神武東征の物語の中で、「なぜ上陸地点が熊野なのか?」という疑問が残ります。

馬飼集団がやって来ただけならば、北河内に上陸した時点で物語が終了しても良いはずです。なんでわざわざ紀伊半島を迂回する話をくっ付けたのか? 疑問ですね?

 そこでまずは、熊野から奈良盆地に入る為の、現実的なルートを考えてみます。先ほど述べましたように、直接入って行くにはジャングルがありますので無理です。

 最短距離となるのは、海路で一旦北側の伊勢に入り、名張を抜けて、奈良盆地。次に、同じく伊勢から伊賀に抜けて、奈良盆地。あるいは伊勢から甲賀に抜けて、琵琶湖、山背を経て奈良盆地。というルートが考えられます。

 いずれも現代では立派な道路が整備されていますので簡単なように思えますが、古代ではこれもなかなか困難なルートです。標高こそ低いものの、山々が連なる地域ですので、一筋縄では行きません。なにせ16世紀の戦国時代でさえもこの地域は、秘境のような場所だったのは有名ですよね? 伊賀や甲賀と言えば忍者。実在はしていなかったようですが、西にも東にも属さない中立地帯であって、なかなか人が踏み入らない場所だった。だからこそ、スパイという諜報機関の役割を果たす人々が誕生した。そんな場所です。

 いずれにしても、一旦伊勢の国に入らない事には、奈良盆地へ入る事はできません。

すると、神武東征は、伊勢の国あるいはそれよりも東の勢力が船でやって来て、奈良盆地へと侵略したのではないのか?

と推測できます。

 ここで重要になってくるのが、伊勢神宮の場所です。

天照大神を祀り、全ての神社の上に立つ神社が、なぜこの地に建立されたのか? という根本的な理由と結びつくと考えます。

 日本書紀には第十代崇神天皇の時代に、この地に神宮が造られた旨の記述はありますが、所詮は神話の天皇の時代ですのでお伽話です。実際には6世紀頃、あるいは式年遷宮が始まった7世紀末だと見るのが妥当でしょう。

 一般的な立地条件の説としては、強い霊気を関じるパワースポットであるから、というのが喜ばれているようです。

そんなファンタージーは置いておいて、この地は近畿地方と東海地方を考える上では、極めて重要な場所である事が分かります。

 伊勢神宮がある志摩半島は、渥美半島と向かい合っています。ここは、大きな湖のような伊勢湾の狭い出入口になっています。濃尾平野などの湾岸地域から出港した船が外海に出る場合には、必ずここを通らなければなりません。それだけでなく、東の国々から近畿地方を目指してやって来る船もまた、この海域を通らざるを得ません。

 

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 古代の長距離移動は、船を使った海路が主流です。街道が整備されたのは江戸時代からですので、それ以前は獣道しかない状態でしたので、陸路を使う事は稀でした。例えば、関東地方から近畿地方へやって来る場合、江戸時代ならば東海道や中山道を歩いて移動したでしょうが、それよりも前の時代は船を使っていました。太平洋沿岸を地乗り航法で、西へ西へと進むわけです。

 すると、紀伊半島への最初の上陸地点は志摩半島。つまり伊勢神宮周辺地域になります。

伊勢神宮近くの高台からは、伊勢湾を出入りする船だけでなく、渥美半島の東方向からやって来る船も、手に取るように観測できます。

 つまり伊勢神宮は、東の強力な勢力が侵略してくる場合の、防衛の最前線だという事になります。

 古事記や日本書紀が編纂された奈良時代には、古代三関(こだいさんげん)と呼ばれる陸路の関所が設けられています。近畿地方が、東海地方や北陸地方の勢力を恐れて設けられたものです。この内の一つは、先程の神武天皇が奈良盆地へはいるルート、伊賀の国を通るルートになります。鈴鹿の関です。

 この陸路の関所以上に重要だったのが、海路の関所である伊勢神宮だったのではないのかな? と私は推測します。

 ちなみに、歴史の古い格式の高い神社は、必ずと言って良いほど、交通の要衝に存在しています。例えば、出雲大社です。島根半島の北西部に立っており、本殿は西方向を向いています。この意図も明らかですね?

 朝鮮半島や北部九州という西方向からやって来る船を監視するのが目的です。古代日本において、中国大陸からの最先端文明は、日本海を対馬海流を利用してやって来たのですが、その中継地点として出雲の国はとても重要でした。ここを通過する船は、味方だけとは限らず、侵略者の可能性もあります。そういった船の交通の重要な拠点だった場所が、神社として祭られていたのです。ただ単に、重要な神様を祀っただの、パワースポットだのと、情緒的な理由だけでそこに存在していたのではありません。

 いかがでしたか?

今回、伊勢神宮が交通の要衝にある事を示しました。時代的には、せいぜい5世紀~6世紀頃に建立されたものですので、邪馬台国の時代よりも数百年後という事になります。それでも、この周辺地域から産出される朱丹が、丹後半島の邪馬台国時代の墳丘墓から検出されたり、丹後半島のお伽話や神社伝承と結びつきがあったりと、かなり日本海勢力との強い関係が垣間見られます。次回は、そういった視点で、伊勢神宮を眺めて行きます。

伊勢神宮へは、渥美半島からが便利でした

 お伊勢参りっていう伊勢神宮詣では、現代だけでなく、江戸時代からとても流行っていたようですね。そのルートは江戸から東海道を西へ進んで、尾張。さらに南へ下って伊勢・志摩に到着。という行程です。現代も、名古屋から、近鉄なりJRなりを使って、南に下るのが普通です。

 でも今回、伊勢神宮を考察する中で、古代にはそんなルートは使っていなかった事が分かりました。船で移動した場合、渥美半島から志摩半島へ渡る方が遥

かに近いです。

 私は、この地域は理解しているつもりだったのですが、やっぱり先入観というのがあって、誤解していました。愛知県の知多半島は西にあって、渥美半島は東にある。だから渥美半島は関東地方に近くて、もっともっと東寄りにあると思い込んでいました。実際、志摩半島とは目と鼻の先なんですね?

 調べましたら、現代の交通機関でもこのルートで伊勢神宮へ行けたようです。ほんの10年ほど前までは可能でした。新幹線の豊橋駅で降りて、豊橋鉄道に乗り換え。渥美半島の先っちょで降りて、伊勢湾フェリーに乗って志摩半島へ。という最高のルートがあったようですね。

 残念ながら、伊勢湾フェリーは2010年に廃止になったようです。15年前にこのルートに気が付いていれば、お伊勢参りももっともっと楽しめたのに。残念です。