魏志倭人伝だけじゃない魏の記録「魏略」

 こんにちは、八俣遠呂智です。

 日本最古の超大国・邪馬台国が中国史書に登場するのは、三国志の中の魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝です。これは三世紀頃の日本列島が、初めて詳細に記された中国史書とされています。

 一方で、同じ時期に記された「魏略」という中国史書をご存じでしょうか?

「逸文」という形で存在が確認されていますが、その詳細はあまり知られていません。

今回は、この魏略についての概要を述べて行きます。

 「魏略」という中国史書は、三国志と同じ時代、または少し古い時代に著された書物とされています。

現存はしておらず、後の時代の中国史書に引用という形、すなわち「逸文」としてその存在が確認されています。

三国志の魏志倭人伝にも、魏略からの引用が一ヶ所記載されています。

 では魏略についての概要を述べる前に、魏志倭人伝が成立した経緯を、まず簡単に整理しておきます。

 魏志倭人伝が記されている『三国志』は、三世紀の中国にあった魏・呉・蜀という三国に関する歴史書で、その次の時代の三世紀後半に陳寿という人物が著したとされています。

1700年前の書物なので、原本は存在しませんが、印刷技術が進化した11世紀から12世紀に発行された書物の中に、ほぼ全文が記されています。

 現代において最もよく目にする三国志は、12世紀に刊行された「紹煕本(しょうきぼん)」という書物に記されているものです。

著者の陳寿が著してから900年も後ですので、何十回も写本されて、かなりの量の誤字脱字があったと推測します。

また三国志の原文だけでなく、陳寿が書いた文章以外にも、後の時代に書き加えられた注釈があります。

その注釈が、今回の主題である「魏略」、からの引用です。魚豢(ぎょかん)という人物によって著わされたとされています。

 具体的には、魏志倭人伝の倭国の風俗習慣の記述の中に、

「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」

「魏略いわく。その習俗は正しい暦や四季を知らず。ただ春に耕し秋に収穫するを計って、年紀となす。」

とあります。これは、裴松之(はいしょうし)という人物が書き加えた注釈です。彼は陳寿よりも100年ほど後の人物で、この魏志倭人伝での注釈だけでなく、三国志全般におよんで魏略からの注釈を書き加えています。

 この事から、魏略という書物は魏志倭人伝よりも前に成立したのではないか?という推測がなされています。しかし、正確な事は分かっていません。

 魏略は、三国志の魏書とは全く異なった内容が書かれていたわけではなく、ほぼ同じで、むしろ簡潔に書かれています。「略」という字が当てられていますので、魏という国についての簡略化した内容が書かれていたという事かも知れません。

魏略からの引用は、三国志だけでなく、後の時代の中国史書にも見られます。

倭国(日本)に関する引用では、翰苑(かんえん)という唐の時代に書かれた書物に多く見られます。七世紀の書物ですので、この時期にはまだ、魏略は存在していた事になります。注釈を入れたのは、雍公叡(ようこうえい)という人物です。

 なおこの翰苑は、中国に現存しておらず、現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残っています。

 では、翰苑(かんえん)に引用された倭人伝に関する「魏略逸文」と、「魏志倭人伝」との違いを示して行きます。

 まず、朝鮮の帯方郡から狗邪韓国へ至る下りでは、魏略は、

「従帯方至倭循海岸水行歴韓国到拘邪韓国七千里」

「帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を過ぎて拘邪韓国に到る。七千里。」

魏志倭人伝は、

「従(郡)至倭循海岸水行歴韓国(乍南乍東)到(其北岸)狗邪韓国七千(余)里」

「郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を過ぎ、南に行ったり東に行ったりして、その北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。」

となっています。

 魏略では、倭国への出発地点を明確に帯方郡と書いていますが、魏志倭人伝では単に「郡」としています。

これは魏志倭人伝の場合、文章の最初に「倭人は帯方東南」と書いありますので、再度、帯方と書く必要がないと判断したのでしょう。

 

 また、魏志倭人伝にある「乍南乍東」や「その北岸」、「余」という記述が魏略逸文では省かれています。「乍南乍東」は、直訳すれば「たちまち南、たちまち東」です。つまり、目まぐるしく方向を変えながら南東に向かったという意味です。魏志倭人伝の著者である陳寿が実際に見聞してきた事実ではなく、そういう知識を持つわけがありませんので、自らの勝手な想像を書き加えることはしなかったでしょう。魏略を土台に何か別の文献から得たデータを付け加えたか、共通のデータがあって、魏略が文章を省略して採用したのか、あるいは魏略の原本は魏志と同等で、引用者の雍公叡(ようこうえい)が省略したか、ということになります。

  また、狗邪韓国から対海国(対馬)へ渡る下りでは、

魏略は、

「始度一海千余里至対馬国其大官卑狗副曰卑奴無良田南北市糴」

「始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑狗で、副は卑奴という。良田はなく、南北で交易して穀物を買い入れている。」

魏志倭人伝は、

「始度一海千余里至対海国其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方四百余里土地山嶮多深林道路如禽鹿径有千余戸無良田食海物自活乗船南北市糴」

「始めて一海を渡る。千余里、対海国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居する所は絶島で、方四百余里。土地は山が険しく深い林が多い。道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸がある。良田はなく、海産物を食べて自活している。船に乗り南北で交易して穀物を買い入れている。」

となっています。

 魏略逸文では恐ろしく文が切り詰められています。ただ魏略原本がこういう形だったか、引用者の雍公叡が省略したかが分かりません。翰苑には魏志、後漢書の引用文もありますが、かなりの省略がありますから、魏略逸文に関しても雍公叡の省略があると考えなければならないでしょう。翰苑本文に対する注ですから、必要と思ったところだけを切り取ったり、要約したりしているのでしょう。

 なお、翰苑という書物は中国には現存しておらず、後世に日本にもたらされて写本され、ずっと伝世されてきたものです。その過程において、誤写や脱落があった可能性も考慮に入れなければなりません。

 

 両者の相違点はまだまだ続きますが、この辺にしておきます。

内容的には、魏略逸文の倭人伝も魏志倭人伝もほぼ同じですが、明らかに魏略の方が省略されています。

これをもって、魏略が魏志倭人伝を要約した書物だったと言い切れるものではありません。それは、三国志を通しての魏略からの注釈は、三国志本文に書かれていなかった事を補足する役割があったからです。

魏志倭人伝でも、先に述べました通り、本文には倭人の風俗習慣に「暦」に関する記述がなかった事から、注釈が書き加えられています。

 また、魏略の著者の魚豢(ぎょかん)は、生没年不詳ながらも、魏に仕えた高官です。『魏略』だけでなく、典略五十巻をも著したとされており、三国志の著者の陳寿よりも前の時代の人物と推測されています。

 この事から、魏略の方が先に書かれたと一般的には見られています。

 要はこういう事でしょう。

魏略を著わした魚豢も、三国志の中の魏書を著わした陳寿も、魏国に関する何等かの同じ史料があり、それを元に取捨選択や、多少の脚色をしながら書物に仕上げたのではないでしょうか? 

三国志の魏書の足りない部分については、100年後に裴松之(はいしょうし)によって魏略を元に注釈が書き加えられました。

 魏略は、その後、不運にも八世紀頃に消失してしまいましたが、三国志は中国正史とされて、ずっと大切に継承されて、魏志倭人伝という日本列島の創成期の姿が現在に語り継がれる事になったという訳です。

 なお、魏略と三国志が参考にした史料は、王沈という人物が書いた「魏書」という書物ではないか? とされています。この魏書については、逸文さえも残っていないので何とも言えませんが、魏という国が存在していた時代に書かれた事は間違いないようなので、三国志・魏志倭人伝を記した陳寿も、魏略を記した魚豢も、王沈の「魏書」を参考にしたのでしょう。

 いかがでしたか?

現代の日本では、単純に邪馬台国がどうの、卑弥呼がどうのと、論争を繰り広げていますが、魏志倭人伝自体にどれだけの信憑性があるものなのか? 根本的なところから疑って掛からなければなりませんね?

そうは言っても、日本列島最古の超大国を語るには、魏志倭人伝しか史料がない、という現実もあります。

 邪馬台国という超大国の場所を見つけ出すには、文献の解釈よりもむしろ、どこが日本列島で最も豊饒な穀倉地帯だったのか? という古代農業に重点を置いて考えた方が良さそうですね?