当時の近畿地方は?

近畿地方の古代淡水湖地図
邪馬台国時代、近畿地方は三つの巨大な淡水湖があった。
淡水湖の干上がる前の断面図
邪馬台国時代の近畿地方は、淡水湖が干上がっていなかった。

 左図は、弥生時代末期の大阪、奈良、京都の様子です。

大きな淡水湖が三つあり、大阪湾の海岸線は上町台地まで来ていました。現在の大阪市中心部は海の底でした。平城京があった奈良市周辺や、平安京があった京都市周辺は、扇状地で、砂の多い土地です。水田稲作には不適格です。

 三つの淡水湖は完全に干上がっておらず、沖積層の土地は僅かでした。右図のように、淡水湖の湖畔の丘陵地だけが、水田稲作に適した土地でした。必然的にこまごまと畦を作らなければならず、大規模農業が出来る状態ではありませんでした。

 邪馬台国説がある纏向遺跡は、奈良盆地の南端の丘陵地に位置しています。多くの土器類の出土品はありますが、人々が生活した痕跡はありません。

 これは何を意味するのか・・・?

新天地・新世界への期待

 纏向遺跡は、おそらく周辺諸国から食や職を求めて集まってきた人々に、土地の割り当てなどの管理をする場所だったのでしょう。アメリカ新大陸へ移住してきた開拓者たちを管理した窓口(エリス島)

や、北海道の屯田兵たちを管理した窓口(札幌)のような役割だったのです。

 淡水湖が干上がって、これから大農園が広がっていくという期待感から、人口が増え、実際に古墳時代という黄金期を迎えたのです。


淡水湖と時代変遷の年表
近畿地方は、狗奴国として古墳時代を迎えた。その後、越前ヤマトに制圧されて飛鳥時代に入った。[邪馬台国]

 古墳時代は河内が主役

 話は逸れますが、百舌鳥古墳群などの巨大古墳群があるのは、大阪府堺市です。地理的に、まず河内湖が干上がって大農園となったのでしょう。都合の良いことに、当時は奈良湖というダムの役割をする淡水湖が上流にあり、安定した水の確保が可能でした。ところが、奈良湖の水が枯渇すると、河内湖は水不足に悩まされ、やがて中心勢力は奈良盆地へと移って行きます。これが、飛鳥時代です。河内湖と奈良湖の中間地点の斑鳩に、拠点を置いたことからも分かります。

 

 なお、図中で奈良盆地の淡水湖を「奈良湖」と表記しましたが、邪馬台国の近畿説を唱える学者さんたちは、「大和湖」と呼んでいます。しかし、大和(ヤマト)という呼び名は、継体天皇が即位した六世紀初頭からですので、ここでは「奈良湖」としました。

 

 近畿地方は、古墳時代以降に主役になった地です。弥生時代末期にも、他を圧倒する農業生産はありましたが、邪馬台国(越前)ほどの生産量はありませんでした。

したがって、条件は微妙に満たしておりません。

 

 近畿地方は、『邪馬台国』ではなく『狗奴国』と見るのが妥当でしょう。

 

 

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邪馬台国