邪馬台国へ行ってきた③

こんにちは。八俣遠呂智です。

 

二年ぶりに、卑弥呼に会いに来ました。

目的は、二つです。

一つは、発掘調査に向けて、墓堀りの無礼をお許し頂く事。

もう一つは、現地を再調査する必要があったからです。

あらためて、卑弥呼の墓の所在地です。

邪馬台国の中心部にあります。

JR北陸本線・福井駅にて、えちぜん鉄道勝山線に乗り換えます。約7分で「越前開発」という駅に着きます。そこから徒歩五分です。

JR北陸本線や、えちぜん鉄道の車窓からも、すぐ近くに見える直径100メートルの円墳です。

 まず、卑弥呼の墓の概要を地図で示します。

単純な円墳に見えますが、実際は南北方向に150メートル、東西方向に120メートルほどの楕円形になっています。頂上部には、昭和29年に建設された上水道の貯水池があります。

建設前の地図によると、標高55メートルだったようですが、工事で削られた為に、現在の標高は50メートルになっています。この工事の際に、卑弥呼の祭祀用器台が発見されました。

 卑弥呼の墓をより正確に見ると、真南に突き出すような形状をしており、20メートルほど標高の低い踊り場のような平坦な部分が存在します。ここに神社が建てられています。

 卑弥呼の墓の発掘調査に当たり、神社の裏側に、横穴式の石室が設けられているのではないか? という推測を立てています。発掘調査が開始した場合には、まずはこの地点の試掘から入りたいと思っています。

 幹線道路ぞいにある北側の入り口に立ちました。立ち入り禁止です。頂上部に貯水池が建設されて以来、65年以上に渡って、立ち入りが許可されていません。

ただし、南側の神社からは獣道が伸びていますので、こっそり頂上まで登れます。

二年前にも参拝にやって来て、登ろうと思ったのですが、大量の虫たちに阻まれて、断念した苦い経験があります。今回は必ず登頂します。

 なお、熊が出没するとの情報もあったので、腰に鈴をつけました。百円ショップで購入した赤ちゃん用のものです。

 西側の神社への登り口に来ました。慣れない自撮り棒での撮影の為、汚い画像をお許し下さい。

 ここは前回、大量の虫に襲われた参道です。じめじめして苔むしていますが、幸いにも虫はわずかでした。

 神社に着きました。まずはお墓参り代わりのご挨拶です。

「お墓を掘るのをお許しください」

この神社は、頂上よりも20メートルほど低い場所にあり、南側に突き出た踊り場のようになっています。邪馬台国時代にもこのようになっていたかどうかは、不明ですが、14世紀の南北朝時代には現代と同じだったようです。これは、足利尊氏が南朝方の新田義貞を越前にて滅ぼした際に、足利軍がこの地に砦を築いたという記録があるからです。

 邪馬台国時代にも同じようにこの踊り場があったとすれば、卑弥呼の祭事はこの場所で行われたのでしょう。真南に突き出た形状は、太陽を司る卑弥呼が祭祀を執り行うには打って付けです。また卑弥呼が埋葬された場合も、この踊り場から横穴が掘られて埋葬されたと推測します。

 このあたりが、卑弥呼の埋葬場所です。神社の裏手にもう一つ小さな建物があり、その裏側の山の斜面になります。

 山の頂上部へは、ここのすぐ脇の獣道から登れます。立入禁止の表示が無いので、特に問題はなさそうです。30メートルほど進むと、水道貯水池が現れます。当然ながら立ち入る事ができないように柵が設けられていました。

 1954年(昭和29年)の工事の際に、ここから卑弥呼の祭祀用器台が発見されています。

なお、この土器が発見された際に「鉄剣」も見つかっていた、という新たな事実も判明しました。これは、次回の動画で詳細を述べる事にします。

 頂上部は、邪馬台国時代の貴重な出土品があった場所ではありますが、工事の前の地図によると尖がった形状をしていました。この事から頂上部には、卑弥呼が埋葬された可能性は低いのではないかとの疑念が湧きました。あまり活用されていなかったのではないか?と思われます。

 また、埋葬されたとしても1954年の設備工事の際に大きく掘削されてしまい、すでに消失してしまった可能性が大きいと思います。

 今回、実際に頂上に登ってみて、改めて「頂上部は埋葬場所ではなかった」という実感を持ちました。

 卑弥呼の埋葬場所は、神社のある踊り場の位置で、山へ向かって横穴が掘られて、そこに石室が設けられているという推定に至りました。