神功皇后は卑弥呼の宗女

 古事記や日本書紀によれば、神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、第15代応神天皇の母親に当たり、三韓征討を行ったという伝説をもつ日本古代の女傑として知られています。明治14年発行の一円札・五円札には神功皇后の肖像が描かれ、また、戦前の国定教科書には兵を率いて海を渡ったという勇ましい伝説が必ず記されていました。その伝説は北部九州から瀬戸内海沿いや、越前(敦賀市)にかけて広く分布しています。

神功皇后
神功皇后は越前・敦賀に住んでいた。[邪馬台国]

神功皇后の5円札


 記紀の信憑性には賛否がありますが、各地の伝説をつなぎ合わせて物語を作っているので、事実も多く含まれています。もし女傑の神功皇后が実在していたとすれば、年代的にも、九州北部や朝鮮との関わりにおいても、卑弥呼の宗女の臺與であるとの説が主流になっています。そして、臺與は越前が邪馬台国であったことを示す証拠の一つともなっています。

 

三韓征伐

 仲哀天皇は、神功皇后を正妃とし、共に、角鹿(福井県敦賀市)に行幸し、角鹿笥飯宮を建てました。皇后はここに留まります。やがて、九州南部で熊曾(くまそ)の反乱が勃発します。神功皇后は、角鹿を出発して九州に向かい、これを制圧します。さらに、朝鮮半島にも侵攻して新羅・百済・高句麗を支配下に置きました。これが、神功皇后の三韓征伐です。

邪馬台国の神功皇后時代
神功皇后が敦賀を拠点にしていた事は、卑弥呼の宗女だったことを裏付ける。[邪馬台国]

 なぜ角鹿(敦賀)か?

 敦賀は、そもそも高志(越前)です。同じ若狭湾にある港でも、敦賀と小浜では全く違います。敦賀は高志(越前)文化圏、小浜は若狭文化圏です。古代日本において、近畿地方(狗奴国)を中心に見た場合、敦賀に入るには険しい峠があり、愛発関(あらちのせき)という関所が設けられるほど、近畿と高志(越前)との交流が制限されていました。現代でも、滋賀県ー福井県間にはJR北陸線が通ってはいますが、滋賀県から福井県に入る普通列車は一本もありません。敦賀は、それほど近畿地方とは交流の無い土地柄です。敦賀は、古代においては、越前(邪馬台国)以北との交易の港だったのです。

 一方の小浜は、滋賀県高島市から緩やかな峠を越えるだけなので、交流が盛んです。さらに、遣隋使・遣唐使時代には、留学生の帰還港であり、九州・朝鮮・中国との窓口の役割も果たしています。また現代でも、高島ー小浜間には路線バスが走っていて、近畿文化圏と言える港です。

 

 もし、神功皇后が近畿地方の人ならば、高志(越前)の敦賀には住むことはできません。住むとすれば、小浜です。さらに、九州へ向かうにしても、敦賀からならば数日掛けて小浜に着き、さらに西へ向かう事になります。なぜ、そんな手間を掛ける必要があるでしょうか?

 単純に考えて、神功皇后は、卑弥呼の宗女である臺與であり、邪馬台国(越前)の人だったと見るべきでしょう。

 

 神功皇后(臺與)は、越前の邪馬台国の支所である角鹿(敦賀)に角鹿笥飯宮を建てて、九州・朝鮮征伐に向かったのです。

 

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