倭の五王も邪馬台国から?

 魏志倭人伝は日本最古の国家の記述がある歴史書ですが、これは言うまでもなく、中国史書・三国志の中のごく一部分です。また、その後の時代の「倭」に関する記載をもつ中国史書も幾つかあります。

 邪馬台国の次の時代に、倭国・日本から中国へ朝貢した記録です。一般に「倭の五王」と呼ばれる日本の歴史書に登場しない王様の存在で、邪馬台国・卑弥呼と共に古代史ミステリーの一つです。今回は、倭国の記述が登場する中国史書の基礎知識から入ります。

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中国史書

 倭国・日本が中国の歴史書の中に初めて登場するのは、魏志倭人伝ではありません。「論衡(ろんこう)」「山海経(せんがいきょう)」「漢書」という書物です。この中で中国の正史とされているのは「漢書」で、西暦80年頃に成立したとされています。中国・前漢の歴史が書かれています。

 この中での倭国・日本についての描写は、極めて抽象的で簡素な表現に留まっています。

「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」

楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

 楽浪とは楽浪郡の事で、朝鮮半島の北西部で現在の北朝鮮西岸に当たります。その楽浪郡からずっと海を渡った先に倭人がいて、時々朝貢にやって来た、というお話です。

 これだけでは、何のことやら?

 なお、楽浪郡の南部には魏志倭人伝に登場する帯方郡があります。これらの地域は、現代でこそ北朝鮮や南朝鮮という独立国家になっていますが、原始時代から近世に至るまでずっと中国の属国でした。20世紀に日本が朝鮮半島を独立させてあげるまでは、ずっと中国の領土でした。

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三国志

 漢書の次に倭国の記述が登場する中国の正史が三国志で、その中の東夷伝倭人条がいわゆる魏志倭人伝です。

ここで、年表を使って中国の王朝名と、その歴史書を整理します。

 先ほどの漢書は一世紀の成立ですが、記述されている王朝は前漢時代ですので、紀元前二世紀~紀元後一世紀前半までです。

 次の時代の後漢は、一世紀前半~三世紀前半。

 魏・呉・蜀の三国志時代は、三世紀前半~三世紀後半

さらに、晋、宋、斉、梁、と続きます。

 それぞれの王朝の正史は、それぞれが滅んだ後に成立しています。不思議なのは、三国志時代よりも前の王朝の歴史書「後漢書」が、三国志よりも後に成立していることです。これについては改めて考察する事にします。

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年表

 中国の歴史書の最も大きな長所は、王朝が滅んだ後にその王朝の歴史書が書かれている事です。滅ぶ前に書かれていれば、自分に都合の良い事の羅列になっているでしょう。滅んだ後であれば、権力者に忖度する必要がありませんので、非常に客観的な視点からの歴史書が書かれるでしょう。むしろ、前の王朝を批判する事で、その時代の王朝を正当化する内容になっている事の方が多く見受けられます。これは当然でしょう。誰しも自分を正当化したいですから。

ただ素晴らしいのは、何千年もの間それらの歴史書を、何十回も何百回も写本しながら、しっかりと受け継がれている事です。

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高信頼性

 さて、このような中国の歴史書の中で、倭国・日本の記述は、三国志では魏書・東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝。

後漢書では、東夷伝倭条。晋書では、東夷伝倭人条。宋書では、夷蛮伝倭国条。南斉書では、東南夷伝倭国条。梁書では、東夷伝倭条、にそれぞれ記述されています。

 三国志以外の歴史書は、後の時代に書かれた事もあって、多少の違いはありますが、魏志倭人伝からの引用と見なされる記述が多いようです。

 一方、邪馬台国よりも後の倭国の話は、宋書以降に記されています。いわゆる「倭の五王」についての記載です。

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倭の五王

 宋の時代から、讃・珍・済・興・武、という倭国の王が、順次、中国へ朝貢してきたとなっています。西暦では四世紀から五世紀ころの話です。記述の内容は非常に簡素で、倭国の状況や風俗習慣の記載はなく、淡々と「やって来た」程度の内容です。

この期間は「空白の150年」と呼ばれ、邪馬台国が中国へ最後に朝貢してから150年もの間、倭国と中国との交流が途絶えた時代です。

 ただし、六世紀の継体天皇の時代までは、考古学的な証拠がありませんので、それまでは全てが空白とも言えます。

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ヤマト王権ではない

 この「倭の五王」、讃・珍・済・興・武について、どの天皇に当てはまるのかという議論は、室町時代から始まっています。本格的な研究は江戸時代元禄期の松下見林の『異称日本伝』以降で、明治以降も数多くの研究が加えられ、現代に至っています。しかし、邪馬台国論争と同じように、結論には至っていません。

 そもそも古文書の、ほんの僅かな下りだけで、全体像を確定させるのは不可能です。可能であるとすれば、邪馬台国の場所を科学的根拠に基づいて確定させる事がまず第一で、その地から継続的に中国へ朝貢していた王族がいた、という流れになると思います。

 つまり、近畿地方のヤマト王権ではない、という推測がなされます。

 遣隋使や遣唐使という、日本の超優秀なエリートたちが中国へ何度も留学していたにも関わらず、古事記や日本書紀には、邪馬台国も倭の五王も記されていません。それは、ヤマト王権にとって不都合な存在だったから、と見るのが自然でしょう。

 歴史書に関しては、中国は尊敬すべきですが、文化遺産についてはお話になりません。ある王朝が滅ぶと、次の王朝は建造物などは徹底的に破壊してしまうのです。唐の時代まで都として栄えた洛陽という町ですが、現在、そこには顕著な遺物は残っていません。過去の王朝は「否定するもの」という思想が根底にあるからです。この思想を受け継いだ朝鮮人は、現代でも同じことを繰り返しています。

なお、現代の京都の街並みは、中国人観光客を感動させるそうです。「唐の街並み見ているようだ」との事です。

 次回は、倭の五王についてのいくつかの説を紹介します。