周防の国が証明する 瀬戸内海のショボさ

 こんにちは。ヤマタノオロチです。

山陽・四国シリーズの3回目です。今回からは地域ごとの弥生時代の様子を具体的に調査・考察して行きます。

まずは山陽地方の西に位置する周防の国です。現在の山口県の南部地域に当たります。北部九州からほど近い場所ですので、その影響を強く受けている事が想像されます。但し残念ながら、この地域の弥生遺跡の話は、あまり耳にしませんね。

 では早速考察に入って行きます。

 奈良時代からの行政区分で周防の国とされる地域は、現在の山口県の瀬戸内海に面したエリアです。同じ山口県でも日本海に面したエリアは長門の国で、気候が若干異なるせいか、風土や文化に多少の相違があるようです。

 地理的に北部九州にとても近いので、どちらも九州文化圏に入れて差し支えなさそうです。

しかしながら、弥生時代の遺跡や出土品を見ると、日本海側の長門では豊富な弥生遺跡があるのに対して、瀬戸内海側の周防ではかなり見劣りします。

 これは、これまで何度も指摘している通り、現代とは違って古代の水運は日本海が主流であって、瀬戸内海は閑散としていたからと推測します。

 では周防の国の弥生時代を農業の視点から追って行きましょう。この地域で、まとまった天然の水田適地があるのは、山口盆地だけです。淡水湖跡の沖積平野ですので、古代にはここが周防の中心地だったと推測します。

 弥生時代の遺跡の分布をみても、ほとんどが山口盆地の中にありますので、水田適地との因果関係は明らかです。

ちなみに、瀬戸内海に面したエリアでは、佐波郡(さばぐん)・現在の山口県防府市の沿岸部にも、多少の水田適地はあったようですが、河川による沖積平野ですので、弥生時代に現在のような平野はありませんでした。

 この地域に特筆すべき弥生遺跡はありませんが、強いて挙げるならば、山口市朝田にある朝田墳墓群です。

ここは、弥生時代後半から古墳時代後半にわたる大墳墓群です。

 木棺墓6、箱式石棺墓13、壷棺墓4、周溝墓8、石蓋土壙墓(せきがいどこうぼ)8、横穴古墳1、横穴式石室墳1が確認されています。

 この他には、生活用の土器類が発見されている遺跡もありますが、特別なものはありません。なにより、鉄器、青銅器などの貴金属や、翡翠、碧玉などの宝石類といった、王族しか持つ事のできない「威信財」の出土がほとんどありません。

 これは弥生時代の周防の国が特に遅れた地域だったという訳ではありません。周防灘に面した九州東海岸にある諸国も同じような傾向があります。宇佐神宮で有名な宇佐平野にしても、甕棺墓などのお墓はたくさんあるものの、威信財と呼べる王族の存在を匂わす出土品はほとんどありません。さらに南にある日向の国にしても、天孫降臨から神武天皇に至る神話は豊富ですが、弥生遺跡はお粗末なものです。

 どうやら弥生時代には、関門海峡という海の難所を隔てて、日本海側と瀬戸内海側との間に極端な文明格差が起こっていたようです。

 このように考古学的には何の魅力もない弥生時代の周防の国ですが、邪馬台国論争の比定地となった経験はあります。

投馬国として三田尻あたりを比定した学者がいたのです。

明治時代の邪馬台国畿内説の先駆者・内藤湖南が、三田尻(現在の山口県防府市)を投馬国としました。

理由は、この地が周防の一ノ宮と称されて古代より内海の要港だったからです。

かなり浅い考えですね。一ノ宮だの、神社伝承があるだの、神社を根拠にするのは学者は、現在では全く相手にされません。夢見る少女と同じレベルです。そもそも神社の歴史は、せいぜい飛鳥時代の七世紀までしか遡る事ができない上に、神社伝承に至っては平安時代や江戸時代に大量に創作されたものだからです。そんなものを三世紀の邪馬台国時代の根拠にしていては、ファンタジーの上にファンタジーを上塗りしているだけで、全く説得力がないのです。

 三田尻は奈良時代に周防の国の国府になっていますので、邪馬台国よりも500年後には一定規模の集落に成長した事は理解できます。しかし、弥生時代にはそうではありませんでした。顕著な弥生遺跡は全く無い事がそれを物語っています。

 内藤湖南は邪馬台国論争の急先鋒ではありましたが、明治時代はまだ考古学的な思慮が浅く、文献解釈や神社伝承にたよった古き良き時代、牧歌的な時代だったという事です。

ちなみに、現代でも宇佐神宮を根拠に邪馬台国・宇佐説を唱える研究家がプロ・アマ問わず存在しますが、時代錯誤もほどほどにしておいた方が良いでしょう。

 邪馬台国時代の重要な遺物が、一点だけ、周防の国から出土しています。

それは、中国・魏の年号が入った銅鏡、紀年銘鏡が発見されているのです。

竹島御家老屋敷古墳という山口県周南市にある前方後円墳からの出土です。

 邪馬台国時代に、女王が魏へ朝貢した際の下賜品として、銅鏡100枚が与えられていますが、その時代の年号が入ったものはたったの8枚しか発見されていません。紀年銘鏡こそが、魏からの下賜品です。この内の一枚がここから見つかっています。

 記されている年号は正始元年であり、まさに下賜された年が描かれた三角縁神獣鏡です。

古墳の年代は、副葬された土器類から、邪馬台国よりも100年遅い4世紀前半とされていますので、邪馬台国よりも100年ほど後の時代ですので、伝世鏡の可能性が高いでしょう。

 なお、紀年銘鏡の出土地は、ほとんどが日本海側で出土しており、女王國の支配地域が日本海沿岸地域だった可能性を示唆するものです。この周防の国での発見もまた、日本海側勢力の影響を強く受けたものと思われます。

 これの詳細については、以前の動画、「魏の年号入り銅鏡 女王國の中にある」にて述べていますので、ご参照下さい。

 いかがでしたか?

周防の国は九州に近いものの、関門海峡という難所がある為に、なかなか文明が伝播しなかったようです。いわば僻地のような場所ですね? 現代の瀬戸内地域とは全く異なる弥生時代の姿が、いきなり浮き彫りになりました。古代の造船技術や航海術では、やはり瀬戸内海を航海するのは生易しいものではなかったのでしょう。

 次回は、瀬戸内海の更に奥地・安芸の国、備後の国(広島県)へと入って行きます。