それでもあなたは古事記・日本書紀を信用しますか?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古事記・日本書紀よりも前に存在していた歴史書には、帝紀や旧辞という書物も存在していました。これらは七世紀の壬申の乱の後に、天武天皇の勅命により編纂されたとする説が有力です。記紀が成立するよりも30年ほど前の時代です。しかし、どういう訳か現存していません。これも、蘇我氏が編纂した「国記」や「天皇記」と同じように、どうやら藤原氏によって闇に葬られた可能性がありますね?

 古事記や日本書紀よりも前に存在していた歴史書には、必ずや邪馬台国の存在が記されていた事でしょう。

前回までに、四つの書物を紹介しました。聖徳太子と蘇我馬子によって編纂された「国記」、「天皇記」、「巨連伴造国造百八十部(おみむらじ-とものみやつこ-くにのみやつこ-ももあまりやそともの)」という書物、および継体天皇から聖徳太子までの系譜を記した「上宮記」です。これらの内、上宮記以外は乙巳の変や壬申の乱などの動乱期に失われてしまいました。また、「上宮記」についても鎌倉時代時代末期以降は、その存在が分からなくなっています。

 これらはすべて、蘇我氏が主力となって編纂された歴史書ですので、その支持基盤だった邪馬台国に関する記述も、普通に書かれていたと考えられます。

 本来であれば、古い歴史書を暗誦した語り部たちによって新しい歴史書が作られるのが理想なのですが、残念ながら古事記や日本書紀では、これらの書物を参考にしたという記録はありません。蘇我氏の歴史では、藤原氏は満足出来なかったという事でしょう。

 国記や天皇記の代わりに、帝紀や旧辞というまた別の歴史書が存在していましたが、それがベースになっているとされています。

 帝紀や旧辞もまた、記紀以前に存在していた歴史書ですが、いつ編纂されたものなのか? 誰によって編纂されたものなのか? など、はっきりした事は分かっていません。蘇我氏の歴史書以上に出所不明の怪しげな歴史書なのです。

 一般論ですが、壬申の乱の後の西暦681年、天武天皇の勅命により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したとする説が有力視されています。そして、稗田阿礼という人物に暗誦させたとされています。稗田阿礼は、古事記の編纂者の一人として有名ですね?

 まさに古事記や日本書紀の編纂が始まった時期ですので、帝紀や旧辞という書物を基にして新しい歴史書が作られた事になります。

不思議なのは、帝紀や旧辞がそのまま国史とならなかった事です。現代まで受け継がれていても良いようなものなのですが、そうなっていません。記紀が成立するまでは、大きな争いごとは無かった訳ですから。どういうわけか、古事記・日本書紀が成立した時には失われています。

 どうやらこの辺の歴史書編纂にも、生々しい人間模様があったようですね?

 時系列にまとめると、次のようになります。

七世紀初頭の聖徳太子の時代に編纂され、645年の乙巳の変で失われた国記や天皇記。継体天皇から聖徳太子までの歴史が記され、鎌倉時代末期まで存在していた「上宮記」。681年に編纂され、記紀成立時には失われた帝紀や旧辞。となります。

 天武天皇が新たな歴史書の編纂を命じたのは、672年の壬申の乱の後です。これを見ると、どうも帝紀や旧辞こそが、天武天皇が望んだ新しい歴史書だったのではないのか? と思わずにはいられません。

 そして天武天皇は、686年に崩御されています。帝紀や旧辞が成立してから、僅か5年後の事です。仮にもし、天武天皇がもう少し長くご存命であらせられたならば、現代に受け継がれている日本最古の歴史書は、古事記や日本書紀ではなく、帝紀や旧辞となっていた事でしょう。

 ところがそうはさせない人物がいました。藤原不比等です。壬申の乱では天武天皇と対立した為に、冷や飯を食わされていました。天武天皇の勅命で編纂された歴史書では、藤原不比等にとって満足できるものではなかったはずです。

 藤原不比等の時代は、天武天皇の崩御された後になってからです。持統天皇の補佐役のような役割に居座り、ヤマト王権を思いのまま動かせる立場になりました。勝者・藤原氏の歴史はここから始まったと言えるでしょう。歴史書編纂についても、勝者の論理で進められました。せっかく天武天皇が編纂を命じた帝紀や旧辞でしたが、これには満足せずに、さらに新たな歴史書を編纂したのです。それが古事記であり日本書紀です。現代に受け継がれている日本最古の歴史書は、藤原氏一族の思いのままに作られた歴史書だと言っても過言ではありません。

 これを裏付ける根拠が、古事記や日本書紀が成立した時期です。

古事記は、712年。日本書紀は、720年です。

聖徳太子と蘇我馬子が編纂した国記や天皇記が失われてから70年。天武天皇が編纂した帝紀や旧辞が失われてから30年以上も後の事です。

 どうしてこんなにも時間が掛かったのでしょうか?

歴史書を編纂する事自体は、慎重を要しますので時間が掛かるのもやむをえません。しかし、国記や天皇記、帝紀や旧辞、という元ネタたあった上での、新しい歴史書の編纂です。古い歴史書に不満が無ければ、そっくりそのまま書き記せば良いだけの事です。

 実際、国記は乙巳の変で焼失を免れた事になっていますし、帝紀や旧辞については稗田阿礼という人物が丸暗記していたという事になっています。語り部のような歴史を暗誦する人材が残っていた時代ですので、記憶を頼りに書き写せば良いだけの話です。ところが、そうはいかない重大な事情があったという事なのでしょう。

 藤原氏と敵対した蘇我氏の歴史書。藤原氏と敵対していた天武天皇の歴史書。これらをそっくりそのまま書き写すほど、藤原不比等はお人好しではなかったという事でしょうね?

 このような経緯で成立した古事記や日本書紀。皆さんはどう思いますか? 唯一無二の正しい日本古代史であると信じますか? そこに書かれている内容が史実であると信用できますか? でももちろん、もし記紀が無かったならば、日本の古代史を全く語れなくなるのも事実です。完全に無視する訳にもいきませんよね? この辺が古代史のとってもグレーな部分です。

 邪馬台国論争では、魏志倭人伝の内容を自説に都合が良いように解釈していますが、古事記や日本書紀でもそうせざるを得ない要素は大きいと言えるでしょう。

 ただし、一つだけ確実に言える事は、古事記や日本書紀は「勝者・藤原氏によって書かれた」という事です。当時の政治状況を俯瞰しながら記紀を読み進めれば、古代史のアウトラインだけは見えてくるのではないでしょうか?

 記紀に記された全ての記述が、藤原氏の歴史と結びついているとすれば、辻褄が合ってきます。

蘇我入鹿が極悪人だったり、神武天皇が紀元前7世紀に日向からやって来たり、天孫降臨が日向の高千穂だったりと、現実離れした内容にも何らかの元ネタがあり、藤原氏一族の歴史と密接に関連しています。

 また、邪馬台国や卑弥呼の記述が無いのも、そこが蘇我氏の地盤であり、藤原氏一族にとって不都合が存在だったとすれば、辻褄が合いますよね?

 いかがでしたか?

文字として記された日本最古の王族系譜は、熊本県の江田船山古墳や埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣に刻まれていたものです。五世紀のものなので、これらをヤマト王権と結びつけたがる輩も多いのですが、無理があります。一方で、近畿地方とは無縁の勢力が全国各地に存在していた事の証明にはなります。ヤマト王権の歴史は、早くても六世紀の継体天皇からです。考古学的史料がそれを裏付けています。記紀に記されたそれ以前の天皇系譜は、藤原氏が創作した系譜に過ぎません。