不彌国は直方平野にあった?

 魏志倭人伝に記されている「不彌国」は、福岡県宇美町だったとする説が有力視されています。一方で、直方平野の福岡県飯塚市あたり(筑前国穂波郡)だとする説もあります。ここは、現代では遠賀川中流域にありますが、弥生時代には、近くまで汽水湖が迫っていました。この地から船で日本海へ抜けて、投馬国へ向かったとしても不思議ではありません。

 今回は、直方平野にある遺跡群の中で、邪馬台国の時代に近い遺跡を調査し、この地に不彌国があった可能性を考察します。

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直方平野の弥生遺跡

 この地図は、北部九州の日本海沿岸地域を拡大したものです。 

この地域には多くの弥生遺跡がありますが、今回は直方平野に焦点を当てます。弥生時代前期で特徴的なのは、水田遺構や遠賀川式土器が出土した立屋敷遺跡や慶ノ浦遺跡などです。これらの時代は、邪馬台国があったとされる時代よりも数百年前の時代です。それでも、出土品の中には翡翠の勾玉も見つかっていますので、その頃から邪馬台国地域との繋がりがあった事を窺わせます。なお、これらの地域は遠賀川の下流域に位置しており、弥生時代には汽水湖の日本海への出口に近い湖畔でした。そのため、水没によって湖への逆戻りを繰り返していました。当然ながら農業生産が不安定となりますので、一定規模の勢力の存在は無かったと推測します。

 一方で、現代の直方市や飯塚市などの遠賀川中流域は、比較的安定していましたので、ある程度大きな規模の勢力があったと見られます。

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豪華な出土品

 直方市エリアの弥生遺跡では、帯田遺跡(おびたいせき)があります。

弥生時代中期の遺跡で、土壙墓(どこうぼ)35基、甕棺墓(かめかんぼ)5基が発見されています。この中の31号土壙墓からは新潟県糸魚川産翡翠の管玉3点、丸玉2点が出土しています。

 この事から紀元前一世紀頃には、邪馬台国・高志の国との交流があったか、あるいは、高志の国の勢力下にあったと考えられます。また、翡翠管玉のサイズは非常に大きいので、権力の大きな王族がこの地域周辺を治めていたのでしょう。

 飯塚市エリアの弥生遺跡では、立岩遺跡(たていわいせき)があります。

 立岩は上質の石包丁生産地でした。周囲の輝緑凝灰岩(きりょくぎょうかいがん)を材料にした石包丁が多数出土しています。この石包丁は佐賀県や大分県にまで広く分布していますので、この地の豪族の財源基盤となっていたのでしょう。

 遺跡の時代は、弥生時代中期~後期にかけてで、43基の甕棺墓が発見されています。その中からは、前漢鏡、鉄剣、鉄矛、などが発掘されています。また、それらの宝物に付着した「絹」も見つかっています。

 絹については、現在のところ北部九州20ヶ所近くで、弥生時代の絹が確認されています。九州以外での出土はありませんので、絹は特産品だったようです。

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不彌國は直方平野

 では今回の主題である「不彌国は直方平野にあったか」について考察します。

 魏志倭人伝に記されている国々の一つですが、非常に重要な場所です。奴国から陸路100里で到着し、投馬国へは海路20日掛かるとされている国です。

 この場所についても様々な説がありますが、現在のところ福岡県宇美町とするのが多数派のようです。その次に支持者が多いのは、この直方平野です。

 ここには、先ほど紹介しました二つの遺跡のほかにも、多数の弥生遺跡や出土品がある場所ですので、候補地の一つに上げられるのは当然でしょう。

 水田稲作農業の視点から言っても、直方平野は湖の干潟という天然の広い水田適地があるのが特徴ですので、宇美町よりも可能性は高そうです。

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穂波郡

 また、宇美町には発音の類似性が指摘されていますが、直方平野も、地名発音の類似性が指摘されています。福岡県飯塚市エリアは、江戸時代までは筑前国穂波郡と呼ばれていました。

「ほなみ」という発音と「ふみ」の発音に若干の類似性があるとの事です。

 地理的には、現代では遠賀川の中流域にありますが、弥生時代には湖のすぐ近くでした。これは当時の直方平野を覆っていた汽水湖の南端が、現代の直方市から飯塚市あたりまで広がっていた事によります。投馬国へ向かうには、汽水湖を下って日本海へと抜ける事ができます。つまり港町の役割としても、辻褄が合います。

 直方平野が「不彌国」だった可能性は非常に高いと思います。

この地域の弥生遺跡から明確なのは、初期の水田稲作と遠賀川式土器の、日本列島全体への拡散です。一方で、同じ時期に伝来した「鉄」と「絹」は、全国的な広がりを見せませんでした。「鉄」については、九州とは別系統とみられる日本海側各地に、大量の出土があります。ところが「絹」については、弥生時代を通して九州から拡散する事はありませんでした。

 水田稲作や土器という一般庶民の生活に直接影響を及ぼす文化に対して、「鉄」や「絹」は上層部の権力者たちの威信財であって、生活必需品としての文化では無かったのでしょう。