四国は辺境の地 神秘の島

 こんにちは、八俣遠呂智です。

山陽道・四国シリーズの7回目。伊予・土佐・讃岐・阿波という四つの国からなる島、四国についてです。現代でこそ本州と四国とは幾つもの橋が掛けられて、気軽に行き来できる場所ですが、弥生時代にはそうはいきませんでした。稚拙な造船技術しかなかった当時は、潮流速度の速い瀬戸内海が、行く手を阻んでいたのです。

 今回はまず、四国の地理的条件を、農業の視点をメインに考察します。

 四国は小さな島の割には、急峻な山々が存在しています。最高標高は石鎚山の1,982mで、近畿地方以西の西日本の中で最も高い山です。

これは、吉野川北岸から佐田岬半島にかけて東西一直線に伸びている中央構造線によって形成されたものです。

この中央構造線は、四国の古代に様々な影響を及ぼしたと考えられます

まず農業の視点からは、水田稲作に適した平地を形成する事ができませんでした。

 中央構造線から北側の瀬戸内海方向に向けては、いわば崖の底のような平地です。2000メートル近い山々の高さから川の水が一気に下り落ちる事になりますので、土砂災害や洪水が頻発したり、逆に渇水の原因にもなってしまいます。また、平地は扇状地や洪積地のような水はけの良い砂質になっています。

 一方で、中央構造線の南側では険しい山々が連なっている為に、水田適地となれるような淡水湖は形成されませんでした。

 現代において一定規模のある平野は、松山平野、讃岐平野、徳島平野、高知平野、などの沿岸部の地域です。

それぞれ現在では、松山市、高松市、徳島市、高知市という県庁所在地がある賑やかな土地になっていますが、古代にはそうではありませんでした。

 松山平野、讃岐平野という北側の平野は、中央構造線の影響で砂礫層や洪積層から成っています。水はけが良すぎて水田稲作には不向きです。徳島平野と高知平野は、河川による沖積平野ですので、弥生時代にはまだ、ほとんどが海の底か湿地帯でした。

 一方で、淡水湖跡の沖積平野が期待できる盆地は、残念ながら大規模なものはありません。

 またこの地域は、気候の面でも不利な条件です。瀬戸内海沿岸地域は、降水量が非常に少ないので水田稲作には致命傷になります。有名なところでは、讃岐平野の農地活用があります。江戸時代に多くの溜池を整備して、苦労しながら僅かばかりの水田を作っていました。しかしそもそも水はけの良い土壌なので、広域的には水田稲作には向きません。そのために小麦のような生産効率の悪い畑作物が主体でした。この地は讃岐うどんで有名ですが、これも小麦の生産が主体だったからかも知れませんね?

 一方、高知平野のような太平洋側では、夏場の台風被害・豪雨被害が深刻です。現代でこそダムや灌漑が整備されていますが、古代にそれはありません。作物の生育期間や収穫期間を襲う自然災害で、収穫物は全滅してしまう危険性の高かった地域です。

 これらのように、四国地方には水田適地と言える場所はほとんどありません。弥生時代という稲作によって人口爆発が起こった時代に、完全に取り残された場所だったと言えます。

 もちろん、生活用の弥生土器の出土はありますので、僅かばかりの農地はあったでしょうし、僅かばかりの人口は存在していたでしょう。しかし彼らの生業は、水田稲作よりもむしろ、海産物の狩猟や、焼畑農業といった生産性の低い食料に依存していたと考えられます。まさに縄文時代の食生活が、そっくりそのまま弥生時代に入っても続けられていたのです。

 実際に四国の山間部では、江戸時代まで焼畑農業が行われていましたので、食料調達にはかなり苦労していた様子が窺えます。

 四国は古代において、ある意味、神秘的な場所だったのかも知れませんね? 瀬戸内海という世界屈指の海域を渡らないと辿り着けない「絶海の孤島」とも言うべき島ですし、人口扶養力の無い土地でしたので住んでいた人もほんの僅か。しかし天気は良くて温暖。なんとなく霊験あらたかな雰囲気がありますね?

 四国八十八箇所巡りなどは、その典型的な例でしょう。

 古代から、都から遠く離れた四国は「辺地」(へじ)と呼ばれていました。

平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれています。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされています。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行したとされています。

 また、古代ヤマト朝廷における祭祀を担った氏族・忌部氏(いんべうじ)も、四国を神聖化していた事の表れかも知れません。忌部氏は三種の流れがあり、そのうちの二つが四国に関係しています。

古事記や日本書紀に登場する天日鷲神(あめのひわしのかみ)を祖とする(阿波忌部)、天道根命(あまのみちねのみこと)を祖とする(讃岐忌部)、の二種です。

 8世紀の奈良時代に書かれた書物の神話の部分ですので、神社が普及し始めた6世紀~7世紀頃に、四国の地が神聖な土地として認識され始めた可能性があります。

 邪馬台国は3世紀ですので、それよりはずっと後の事でしょう。

 いかがでしたか?

農業の視点からは、邪馬台国時代の四国に大きな国が存在していた可能性はありません。しかし、絶海の孤島である事や、人口の少なさ、温暖で快適な気候などから、古代の人々の憧れの地だったのかも知れませんね?

 邪馬台国論争に登場する事の無い四国ですが、多少の弥生遺跡は存在しています。次回は、考古学的な視点から四国を見つめてみましょう。