鉄器の活用から鉄の自国生産へ

 越前・邪馬台国から出現した謎の大王 継体天皇

 鉄器の伝来が極端に遅かった近畿・狗奴国に対し、先進的な鉄器を携えて近畿を侵略しました。記紀の中に、血生臭い戦闘があったという記述はありませんが、戦闘力の優劣は明らかでした。

 鉄器は戦闘用だけでなく、土木・治水・開墾・農耕など、様々な分野で近畿地方の文明開化を引き起こしました。

 そして、近畿地方の鉄器の需要の爆発的な増加に伴い、製鉄所の建設が行われるようになりました。当然ながら、これらは渡来人の活躍によるものです。

鉄1
鉄器生産の基本

 初めに、鉄の基本から入ります。古代の文化の流入を、順序立てて考えるには必要なので、概略を説明します。

 自然界には鉄は存在しません。原料となる鉱物資源は、鉄鉱石や砂鉄といった酸化鉄です。この酸化鉄を還元して、鉄を精製します。さらにこの鉄を加工して、鉄剣や斧などの鉄器製品に仕上げます。

 この過程において、鉄を精製するための製鉄所が必要です。これは、高度な技術を要するので、日本での製鉄所は、六世紀半ば頃まで存在しません。

 また、鉄から鉄器へ加工するには、鍛冶の技術が必要です。越前では、二世紀には既に鍛冶の技術があり、卑弥呼時代の大量の鉄器が出土しています。

 一方、近畿の鉄器事情はお粗末で、五世紀頃まで鍛冶の技術どころか鉄器の伝来すらありませんでした。

 詳しくは、私が以前に作成した動画『鉄の最多出土地』をご参照下さい。

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卑弥呼時代に越前・邪馬台国では鉄器加工を行っていた。近畿・狗奴国では、鉄器伝来すら無かった。

 越前・邪馬台国では、卑弥呼の時代の二世紀頃には、鉄を朝鮮から輸入し、鍛冶職人によって鉄器の製造が行われていました。

 一方の近畿・狗奴国は、鉄器の伝来が遅かったにも関わらず、巨大古墳の造成にうつつを抜かし、文明後進国となってしまいました。そして、五世紀~六世紀の継体天皇の時代に、ようやく近畿地方に鉄器が流入して来ました。

『古事記』によれば、応神天皇の頃に「百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素(たくそ)が来朝した」とあります。これは、鉄器が、まだ近畿に伝来していない時代の神話です。神功皇后の息子の応神天皇の時代に、百済から越前・角鹿(敦賀)に鍛冶の技術者が来たという事でしょう。

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継体天皇の近畿征服と共に、鉄器が近畿に大量流入した。

 また『古事記』には、継体天皇の孫の敏達(びたつ)天皇の時代に(583年)「新羅(しらぎ)から優れた鍛冶工を招聘し、刃金(はがね)の鍛冶技術の伝授を受けた」とも記されています。

 これで、ようやく近畿にも鉄器文化が本格的に伝来した事になります。

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敏達(びたつ)天皇の時代に、近畿に鍛冶職人も現れた。

 また、同じ時期に、近江の国・高島を中心とする琵琶湖の西岸に幾つもの製鉄所が作られ始めます。

 これは、継体天皇の重臣・秦氏の功績です。秦氏は、若狭に本拠を置く渡来人の豪族で、製鉄技術を持つ朝鮮半島の金海加耶(きめかや)を出身としています。秦氏一族が、若狭から峠一つ越えた近江の地に、製鉄所を建設したのでしょう。

 これで、国の根幹となる鉄器を、朝鮮半島から輸入する事なく、日本国内で原料から精製して、製品に仕上げる事ができる様になりました。六世紀末の、この鉄の自給が、飛鳥時代のヤマト勢力が飛躍する一つの要因になったのでしょう。

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継体天皇の重臣・若狭国の秦氏により、近江国に製鉄所が造られた。

 余談ではありますが、近江の国に製鉄所を設けた事は、近江が植民地として扱われていた証です。

 製鉄所を造るという事は、現代で例えるなら、原子力発電所を造るようなものです。極端な危険を伴うからです。

 当時の製鉄技術は稚拙な上に、原料が鉄の含有量の少ない鉄鉱石だった為に、膨大な量の木炭を必要としました。山は禿山となり、川の水に栄養分が無くなり、土砂崩れや洪水が頻発し、農業生産は極度に落ち込んだはずです。

 邪馬台国の卑弥呼の時代から、越前で製鉄工場を造らなかったのは、この事をよく知っていたから、かもしれません。

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製鉄所は、国滅ぼし工場。大量の木炭を使い、農業生産は激減する。

 越前・邪馬台国の継体天皇の近畿征服は、あらゆる面で画期的でした。近畿地方は、巨大古墳造成などという馬鹿げた工事をしていた為に、井の中の蛙となり、すっかり後進国となっていました。

 そこへ、越前という日本海側から、先進文明を持った渡来人達を率いて、飛鳥時代・奈良時代へとつながる礎を築いたのです。

 渡来人たちの功績はもちろんですが、彼らを率いて日本を正しい道へ導いたリーダーとしての功績は絶大です。

 越前・邪馬台国の卑弥呼から継体天皇へ、そして今上天皇へとつながる系譜は、最も偉大な一族である事に間違いはありません。