沖ノ島は九州の縮図

 宗像が最も輝きを見せるのは、考古学的に四世紀後半からです。古代祭祀に使われた学術的に価値の高い出土品が、数多く発見されています。

 特に沖ノ島では、「発見」と言うよりも、島中に国宝がゴロゴロころがっているそうです。

 そんな宝島・沖ノ島を見ていると、宝島・九州の縮図に思えてきます。

 今回は、宗像エリアの古代遺跡を、縄文時代~古墳時代のロングスパンで俯瞰し、考察して行きます。

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宗像の島々

 宗像エリアには、縄文時代から古墳時代までの様々な出土品があります。その中でも、沖ノ島を中心とした古代祭祀遺跡は圧巻です。わずか周囲4キロの孤島でありながら、12万点にも及ぶ出土品の多くが国宝・重要文化財に指定されています。これらのほとんどは古墳時代のものです。但し小さな島ですので、農耕地はほとんど無く、ここに強大な勢力が存在していたとは到底考えられません。宝物を保存する為の重要な場所だったのでしょう。

 なお、古墳時代より前の縄文時代~弥生時代の出土品も二万点ほどありますが、一般的な土器や青銅器ですので、他の地域と比べて特筆するほどの価値はありません。

 また、宗像大社のある地域も同じような傾向があり、縄文時代からの遺跡はあるものの、あまり個性がありません。

 強いて弥生遺跡を上げるとすれば、纏まった品々が発見された田熊石畑遺跡(たぐまいしはたいせき)があります。

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宗像の遺跡

 この地図は、宗像市を拡大したものです。弥生時代には内陸の盆地にまで海水が入り込んだ「湾」を形成していました。

 田熊石畑遺跡は、この湾の南端に位置しています。弥生時代中期の集落遺跡で、邪馬台国より少し前の時代です。

 ここからの出土品は、6基の木棺墓から銅剣・銅矛など青銅製武器が15点出土しています。この時期の墓群から出土した点数としては国内最多級であり、弥生時代の宗像地域での有力な豪族の存在が想定されます。

 しかし、残念な事に個性的な遺跡とまでは言えません。それは、海人族・宗像氏としての特徴が無いからです。海人族であれば、船や船団の線刻画、鉄器類の出土を期待したいのですが、そういうものは一切出てきませんでした。

 この地域の遺跡の特徴は、国宝級の出土品が幅広くあるものの、時期的には古墳時代にだけ特筆すべきものがあります。この事から宗像エリアは、邪馬台国時代よりも後の時代に栄えた地域と言えるのでしょう。

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朝鮮半島の海人族

 沖ノ島および宗像の出土品からは、朝鮮半島との深い繋がりが見えてきます。

 朝鮮半島西南部の祭祀遺跡として竹幕洞(ちゅくまくどん)遺跡があります。宗像と同じように海洋交通の安全を祈願した遺跡で、時代も四世紀頃とほぼ同じです。この遺跡では、日本製の石器類も発見されており、両者の深い繋がりが感じられます。

 そもそも、宗像氏をはじめとする海人族は、海洋民族・縄文人の末裔ですので、当然と言えば当然の事です。なぜなら、彼らは縄文時代から朝鮮半島も支配下に置いていたのですから。

 但し、邪馬台国時代においては、まだまだ宗像氏の活躍は顕著ではなかったと、出土品は物語っています。

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沖ノ島は九州の縮図

 話は少し飛躍しますが、

 沖ノ島の12万点の国宝・重要文化財からは、「沖ノ島は九州の縮図である」という印象を持ちました。

 それは、貴重な出土品が多いだけでは、その地に超大国が存在していた事にはならない、という例えです。

 僅か周囲4キロの小島が超大国だったとは、誰が想像するでしょうか。同じように、九州という農業生産の低い土地に弥生時代の超大国あったとは想像できないでしょう。

それは、

1.その地に多くの人々が住んでいなかった

2.住んでいたとしても、彼らを養うだけの食料を確保できなかった

という単純な話です。

 私の説の基本は農業です。農業の視点からは、邪馬台国九州説を否定せざるをえません。北部九州には貴重な出土品が多いのは確かです。ところが、そこには多くの人々が住む事は出来なかったのです。多くの人々を養うだけの食料を確保する事は出来なかったのです。そのような場所に、邪馬台国という超大国が存在するのは不可能です。つまり、九州は弥生時代の宝島であって、邪馬台国ではありません。

 「沖ノ島は九州の縮図」という事です。