金印の奴国は小国だった

 畑作縄文人と稲作弥生人との融合が始まった博多湾沿岸地域ですが、残念な事に、水田適地はほんの僅かでした。

 それでも、原始的な焼畑農業による作物栽培と、漁業・海洋交易によって、小さいながらも国家のような集合体があったとみられます。

それは、考古学的に揺るぎない『漢委奴国王』金印の発見から明らかでしょう。

 今回は、博多湾沿岸地域に100%存在していたであろう「奴国」の姿を、農業と海人族の視点から推測して行きます。

金印10
金印

 博多湾に浮かぶ志賀島から発見された『漢委奴国王』の金印は、中国が後漢という国だった時代に、倭国・日本へ下賜したとされるものです。西暦一世紀中ごろとされ、邪馬台国の時代よりも200年ほど前の時代です。これは、この金印が、『後漢書』(ごかんじょ)という後漢について記された書物の記載と一致している事から同定されています。

 中国の古文書の信憑性については、別の機会に考察するとして、ここでは、金印が一世紀に中国から贈られた事を前提に、当時の奴国の状況について考察します。

金印20
奴国はどこ?

 奴国が博多湾沿岸地域だった事は、間違いありませんが、その中心地がどこだったかは、諸説あるようです。ここでは、主な三つの説を紹介します。

1.志賀島と海岸地域

2.早良平野(さわらへいや)

3.那珂川流域

です。

金印20
博多の弥生遺跡

 まず志賀島と海岸地域ですが、これは言うまでもなく金印が出土した場所である事が最も大きな論拠です。志賀島の弥生時代の出土品は、金印以外に特筆すべきものはありませんが、湾岸地域には豊富な弥生遺跡があります。博多遺跡群と呼ばれる地域で、弥生時代から現代までの様々な出土品があります。

 中でも唐原遺跡(とうのはるいせき)は、邪馬台国時代に合致する弥生後期の集落遺跡です。漁業を生業とした海人族の遺跡で、海産物の加工処理遺構とみられる炉址(ろし)もみつかっています。また、山陰から丹後地方の土器が多く出土してますので、環日本海沿岸地域を支配していた縄文人の流れを組む海人族の集落と考えられます。海辺の集落なので、農業に使われた道具は乏しいものの、漁業に使われた道具や武器などには新鋭の金属器が使用されています。

 出土品の中には、北部九州としては希少な鉄製の長剣(ちょうけん)が二本出土しています。鉄製長剣については、邪馬台国・越前や、投馬国・丹後での出土が多い事から、この地域は邪馬台国の支配下にあったと考えられます。

 また、西新町遺跡(にしじんまちいせき)は三世紀~四世紀の集落遺跡で、渡来人の住居跡や多量の朝鮮半島の土器が見つかっています。これは、中国大陸や朝鮮半島との頻繁な往来があった事を物語っています。当時としては最大規模の国際交易港だったようです。

金印40
早良平野

 次に、西部地域の早良平野(さわらへいや)一帯です。

ここは、室見川による扇状地が形成されている平野ですので、水田稲作には適しませんが、焼畑農業による作物栽培は縄文時代から行われていた土地です。前回の動画で紹介しました縄文集落の四箇遺跡(しかいせき)がこれに当たります。弥生時代になってからも焼畑農業は続けられており、吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)に代表される大規模集落跡が発見されています。弥生前期末から中期初頭の遺跡で、銅鏡や青銅器、勾玉などの豪華な副葬品が出土しています。勾玉は糸魚川産の翡翠で作られていますので、ここもまた邪馬台国の影響力が強かったと考えられます。

 弥生末期の大集落跡としては、野方遺跡(のかたいせき)があります。

ここは邪馬台国時代の環濠集落で多数の竪穴式住居跡や高床式倉庫などが発見されています。出土品も豊富で、銅鏡や鉄刀・管玉・ガラス玉などが出土しています。

 なお、この早良平野を「早良王国」と呼ぶ学者もいるほど、出土品や王族の墓が多い地域です。

金印50
那珂川流域

 次に、那珂川の流域です。

この上流地域には弥生中期頃に栄えていた安徳台遺跡(あんとくだいいせき)があります。やはり焼畑農業をベースにした集落で、130基以上の住居群や直径14mの大型建物跡などが発見されています。奴国内の主要集落の一つだった事は間違いないでしょう。勾玉、鋳型、鉄器などの出土品も豊富ですが、まだ一部しか発掘調査されていないので、さらなる発見が期待されている遺跡です。

 安徳台遺跡から那珂川を少し下ると、須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)などの遺跡群があります。那珂川水系は弥生遺跡だらけですので、魏志倭人伝の「奴国」と見なすのは自然に思えます。

 なお、那珂川下流域にある「那の津」という名称から、奴国をこの地域と見なす学者さんが多いようですが、弥生時代にはこの地域はまだ海の底でした。

魏志倭人伝の地名を、現代の地名から推定するならば、最初に地学上の根拠を押さえて置かなければなりません。

金印60
博多全域

 以上の様に、博多湾沿岸地域には様々な弥生遺跡や集落跡が発見されています。奴国の中心地候補として、

1.志賀島と海岸地域

2.早良平野

3.那珂川流域

の3つを挙げましたが、甲乙付けがたい遺跡の宝庫です。

 農業の視点から見ると、いずれの弥生遺跡も、焼畑農業という生産性の低い作物栽培を生業としていました。従ってこの地域に、一極集中型の巨大国家が成立する下地は無かったと見ます。

 魏志倭人伝の中では、一番大きな国は邪馬台国、二番目に大きな国は投馬国、そして三番目に大きな国として奴国となっています。博多湾沿岸地域の中で、「奴国の中心がどこか」、というよりも、この地域全体で何とか三番目の国家になれた、というのが実態でしょう。

 奴国全体のイメージとしては、沿岸部には海人族が漁業や交易活動を行って、朝鮮半島からの文物の流入は多かったものの、水田適地が少ない為に多くの人々が生活するだけの農業生産は無く、焼畑農業を生業とした集落が点在していた程度、と考えられます。

 博多湾沿岸地域は弥生遺跡の宝庫です。今回紹介した遺跡群は、ほんの一部に過ぎません。この地域に遺跡が多いのは、朝鮮半島から最も近いという「地の利」がある事は言うまでもありません。

 もう一つの理由として、洪水被害が多かった事が挙げられます。これは、山々から海岸線までの距離の短い扇状地の宿命です。縄文時代から近代に至るまで、幾度も鉄砲水によって古代集落が砂に埋もれてしまいました。それによって、様々な時代の遺物が何層もの地層に重なるように眠っていたのです。

 水田適地が少ない為に超大国とはなりませんでしたが、遺跡の博物館のような場所、それが博多湾沿岸地域に存在した奴国の姿です。