古事記・日本書紀に隠された邪馬台国のヒント

 こんにちは、八俣遠呂智です。

古事記や日本書紀が編纂された当時の実力者・藤原不比等。邪馬台国が記されなかったのは、彼の意向が強く反映したからです。厳しい緘口令を敷いて、邪馬台国を抹殺したのです。しかし、ほんのわずかながら邪馬台国や卑弥呼の存在を匂わす記述もあります。編者である太安万侶や舎人親王が、苦肉の策で邪馬台国の場所のヒントを残してくれたのでした。今回は、日本書紀や古事記の中に僅かに見られるヒントを考察します。

 古事記や日本書紀よりも前に存在していた歴史書には、必ずや邪馬台国の記述があった事でしょう。国記、天皇記、上宮記、帝紀、旧辞などには、当然のように邪馬台国や卑弥呼についての描写があったと推測します。

ところが8世紀に成立した新しい歴史書、古事記や日本書紀では、きれいさっぱり失われています。当時の権力者・

藤原不比等によって厳しい緘口令が敷かれ検閲が行われていたと想像するに難くありません。現に、天武天皇の勅命で編纂された帝紀や旧辞の成立から30年もの月日を要して、ようやく完成したという事実からも、その拘りぶりが窺えます。

 そんな中で、ほんの僅かながら邪馬台国を連想させる記述が残っています。

 邪馬台国の記述が古事記や日本書紀の中に見られない理由について、「記紀が成立したのは八世紀の奈良時代だから、邪馬台国が存在した三世紀からは500年も後の事。とっくに忘れてしまったんだよ。」という説もあります。しかしそんな事は決してありません。実際に、日本書紀の中には邪馬台国や卑弥呼の文字は無いものの、魏志倭人伝からの引用文があります。日本書紀を編纂するに当たっては、魏志倭人伝に記されている内容を読んで十分に理解していたのは明白ですね? その上で、邪馬台国や卑弥呼の存在を無視したという事になります。

 魏志倭人伝からの引用があるのは、第九巻の神功皇后の章です。神功皇后はよく知られているように、日本で最初の女王とも言える存在で、三韓征伐などを行った古代史最強の女傑です。この章の中に魏志倭人伝からの引用があるという事は、神功皇后こそが卑弥呼であるという意図が、編者の舎人親王の中にあったのは確実でしょう。

 残念ながら藤原不比等によって厳しい緘口令が敷かれていたせいか、具体的に邪馬台国や卑弥呼という文字はありませんし、ヤマト王権との繋がりがあったとの記述もありません。しかし引用された部分は、そっくりそのまま・ほぼ完璧に魏志倭人伝と同じです。

 では具体的な内容を示します。

魏志倭人伝からは、三か所の引用があります。魏の国との交流の記録です。

 まず最初に、神功39年の条に、女王國から中国・魏へ朝貢した内容があります。

 

「是年太歳己未 魏志云」

「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏 將送詣京都」

 

「是年太歳己未(たいさいつちのとひつじ)。魏志に云う。明帝景初3年6月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求めしむ。太守鄧夏、吏を遣わし、将(も)って送りて京都に詣らしむ」

とあります。

 魏志倭人伝の記述とほぼ同じです。

 次に、神功40年の条には、

倭の女王が朝貢したことに対して、魏の使者が倭国にやって来た内容があります。

 

「魏志云 正始元年 太守弓遵 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭國」

「魏志に云う。正始元年、太守弓遵、建忠校尉梯携等を遣わし、詔書、印綬を奉じて、倭国に詣らしむ」

 

とあり、魏からの使者が詔書と印綬を持って、倭国にやって来たとあります。

 さらに、神功43年の条に、

 

「魏志云 正始四年 倭王 復遣使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人上獻」

「魏志に云う。正始4年、倭王、復た使大夫伊声者、掖耶約等8人を遣わして上献す」

 

とあり、二回目の朝貢の記録です。これも魏志倭人伝とほぼ同じ内容が記されています。

 魏志倭人伝からの引用は、以上の3点ですが、さらにもう1点、他の中国史書からの引用もあります。これは、魏の後継国である晋の書物からの引用です。

 

神功66年の条に、

「是年 晋 武帝泰初2年 晋起居注 云 武帝泰初2年10月 倭女王 重訳貢献」

「是年、晋の武帝泰初2年、晋起居注(しんききょちゅう)に云う。武帝泰初2年10月、倭の女王、重訳貢献す」

とあります。これは、西暦266年に卑弥呼の宗女・壹與が、晋へ朝貢した記録です。魏志倭人伝にも壹與からの朝貢の記述はありますが、ここでは晋の歴史書からの引用になっています。

 このように、魏志倭人伝から3点、晋起居注(しんききょちゅう)から1点の、全部で4点の引用がありました。これら全てが、神功皇后という日本最初の女王の時代の年紀に記されているのは、その意図した事は明らかではないでしょうか? 卑弥呼という文字すら現れないものの、古代史最強の女傑が卑弥呼であると、暗に指し示しているに他ならないでしょう。

 日本書紀の編纂に当たって、藤原不比等による緘口令は敷かれていたものの、編者である舎人親王は敵対した天武天皇の皇子です。天武天皇が崩御されても、舎人親王に対して不比等は強く物が言えなかったのかも知れませんね?

 なお、神功皇后と卑弥呼との共通点は多く、倭国の最高権力者であった事。未亡人ながら独身であった事。弟のような武内宿祢という補佐役がいた事。巫女として神託を受けていた事。など、魏志倭人伝との一致も見られます。

 そしてこの記述から見えてくるのは邪馬台国の場所です。

魏志倭人伝には邪馬台国について、「女王之所都」とあります。つまり卑弥呼が都を置いた場所こそが邪馬台国だという事です。

一方、神功皇后が都を置いた場所は、どこだかご存じですか? 奈良盆地でも、北部九州でもありません。

角鹿笥飯宮という場所です。現在の北陸地方の福井県敦賀市です。古代の名称で言えば高志の国・越前です。

つまり日本書紀から見えてくる邪馬台国の場所は、越前・敦賀だという事になります。

 日本書紀の中に魏志倭人伝からの引用があるのに対して、古事記の中に邪馬台国や卑弥呼を連想させる記述は、一切ありません。これは、編者の力関係によるものではないでしょうか? 日本書紀が天武天皇の皇子・舎人親王によって編纂されたのに対して、古事記は太安万侶という人物によります。彼は、勲五等という決して低い勲等ではなかったものの、皇族や藤原不比等とは天と地ほどの落差のある身分でした。藤原不比等が邪馬台国に関する緘口令を敷いたならば、素直に従わなければならない地位でした。

 そんな古事記の内容について、現代の古代史研究家たちは様々な曲解を行って邪馬台国と結びつけたがります。はっきり言って、無駄な努力ですね。邪馬台国と関連する記述は、古事記にはどこにも見当たりません。

 そうは言うものの、実は私も古事記の記述を自分に都合の良いように解釈しています。八俣遠呂智の内容です。

私が八俣遠呂智という名前を名乗って邪馬台国を論じているのは、古事記から見えた邪馬台国の場所にちなんだものなのです。

 私の邪馬台国探しは、古代の農業生産が大きな地域を見つけ出す事でした。そんな中で北陸地方の越前・現在の福井県北部地域が弥生時代に最も大きな農業生産力があった事を突き止めました。魏志倭人伝に記されている七萬餘戸、一戸あたり6人として42万人を賄えるだけの強力な人口扶養力があった場所です。

 考古学的にも、鉄器の出土数が日本一多い事や、翡翠・碧玉などの宝石類の出土、四隅突出型墳丘墓という弥生時代の大型墳丘墓、さらには六世紀の継体天皇へと続く強力な王族の存在など、邪馬台国の資質が十分にある場所だと分かりました。また、北部九州の弥生遺跡からは北陸地方の土器や、翡翠・碧玉などの宝石類が発見されている事から、越前勢力の支配が北部九州にまで及んでいた事を突き止めました。

 しかしながら、高志の国という場所と、邪馬台国という名称に明確な一致がなかなか見つからずにいました。

そんな中で気が付いたのが、古事記の八俣遠呂智神話でした。ここには、「高志之八俣遠呂智」と明記されている様に、高志の国・越前の勢力が、出雲の国を搾取していた様子を、怪物の姿を借りて表現されています。この事自体については、邪馬台国の支配が北部九州にまで及んでいましたので、当たり前と言えば当たり前です。

しかしそんな八俣遠呂智の記述の中に、高志の国・越前が邪馬台国である事の強烈なヒントが隠されていたのです。

太安万侶が、頓智を利かせて未来の人に邪馬台国の場所を教えてくれたのでした。

「高志之八俣遠呂智」=「越の邪馬台の遠呂智」

つまり、「越の国に邪馬台国があった事を、遠い未来に知る事になるだろう。」

という意味が込められていたのです。太安万侶、素敵です。ありがとう。21世紀になってようやく、邪馬台国の場所が分かりました。

 厳しい緘口令を敷いた藤原不比等も、さすがにこの太安万侶のトンチまでは見抜けなかったようですね?

 いかがでしたか?

藤原不比等の陰謀によって、歴史から完全に抹殺されたと思えた邪馬台国。それでも、舎人親王や太安万侶が残してくれた僅かばかりのヒントによって、その場所が見えてきましたね? 日本書紀から明確に見える邪馬台国は、越前・敦賀。古事記から見える邪馬台国は、高志の国・越前。どちらも越前がキーワードになっています。

 後は、卑弥呼の墓と比定する福井県福井市の丸山古墳さえ発掘調査すれば、古代史最大のミステリーは完全に解決する事でしょう。