水行二十日は小型船団

 邪馬台国時代(三世紀)の『鉄』の供給元は、中国大陸東北部の高句麗か、朝鮮半島南部の弁辰か。

 前回は、弥生時代の準構造船の特徴から、高句麗からの直輸入を推定しました。

日本海を反時計回りにダイナミックに航海する沖乗り航法の可能性です。

 一方、弁辰(任那)からの輸入の可能性も捨て切れません。

魏志倭人伝に記された不弥国(北部九州)から邪馬台国(高志)までのルートと、完全に一致するからです。

 今回は、高志の国から弁辰(任那)へ至るルートの可能性の中で、邪馬台国・越前から投馬国・但馬へのルート、および、投馬国から北部九州へ向かう移動手段について推察します。

小型船団1
邪馬台国の行路

 魏志倭人伝には、北部九州の不弥国から、投馬国・但馬を経由して邪馬台国に至るルートが記されています。

 これは、高志の国・越前が邪馬台国だった事の一つの根拠です。以前に作成した動画で詳細を述べていますのでご参照下さい。ここで再度、簡潔にその行路を復習します。

 不弥国から20日間の航海で、投馬国・但馬に到着、投馬国から10日間の航海で、

邪馬台国に到着します。不弥国から邪馬台国へは、対馬海流の順方向なので、すべて船を使います。朝鮮半島の鉄や、九州から徴収した租庸調の重い荷物を運ぶので、船は必ず必要です。

 一方、邪馬台国から投馬国への逆の行程は、陸路を使います。当時は険しい獣道ですので、一ヶ月は掛ってしまいます。これは船を使った場合、対馬海流の逆方向の行路となり、しかも若狭湾を跨いで航海しなければならないので、やむをえず陸路となりますが、それだけではありません。運搬する物資の違いです。高志の国・越前からは、翡翠や瑪瑙などの宝石類が交易品なので、必ずしも船は必要とはならないのです。

 このように、魏志倭人伝の邪馬台国への行路が完全に一致するのは、高志の国・越前だけなのです。

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投馬国からは小型船団

 今回、鉄の輸入を目的として、邪馬台国・越前から、朝鮮半島南部へ向かう行路を考えます。

 まずは、魏志倭人伝の記載どおりの行程で、北部九州まで向かう順序に従います。

邪馬台国から、険しい陸路を通って、一月で投馬国に到着します。

 次に投馬国からは、船を利用します。若狭湾のような長距離を渡る必要が無くなるので、船を使う方が便利です。ここで使う船は、丸木舟などの少人数で乗り込む船で、船団を組んでいたと考えられます。

 「なみはや号」の様な巨大な準構造船では、対馬海流に逆行する事はできません。船を安定させる為に、数百キロもの重りを船底に入れるので、人が漕ぐ力や、風の力がほとんど役に立たなくなってしまうからです。

 もし、準構造船を使うとすれば、丸木舟の舳(とも)先を高くせり上げる程度の細工をした小型の船でしょう。一応、外海を航海するので、波よけ用の舟形にする必要はあります。しかし、地乗り航法で陸地に沿って航海するので、食料や水を積む必要がなく、交易品の宝石だけでよいので、小型船で十分です。

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袴狭遺跡の船団線刻図

 投馬国・但馬からは、これを証明する出土品があります。兵庫県豊岡市の袴狭(はかざ)遺跡です。木に彫られた線刻画で、17隻もの小型船がリアルに描かれています。弥生時代末期から古墳時代にかけてと推定されていますので、まさに邪馬台国時代の絵です。この時代の船団の絵が発見されているのは、投馬国・但馬だけです。

 この絵では、どの船も船首が上に突き出ており、外海を航海する為の、小型の準構造船と見られます。これだけリアルな描写は、想像で描いたものではなく、実際に船団を見た者が描いたものです。間違いなく、投馬国から船団を組んで出航したのでしょう。

 邪馬台国・越前から陸路一月で投馬国・但馬へ。そして、投馬国から船団を組んで、さらに西へ進んだ事を裏付ける船団の絵です。

 今回は、邪馬台国・越前から投馬国・但馬への陸路と、投馬国から小型船団を組んで出航するところまで、推定しました。海流・交易品・船舶という、各条件に合致した行路です。

 投馬国からは、小型船団の地乗り航法で北部九州へ『水行20日』で到着する事になります。

 次回は、『鉄』の取引が行われた朝鮮半島南部の弁辰(任那)への航路と、弁辰から邪馬台国・越前への帰還ルート、および、どのような船舶で輸送したか、などについて考察します。