卑弥呼の墓⑥ 日本最初の横穴式

 女王の都・邪馬台国から見つけ出した卑弥呼の墓は、丸山古墳です。直径約100メートルの円墳で、弥生遺跡群に取り囲まれた場所にあります。この構造は、盛り土だけで作られたのではなく、内部に基礎となる山(岩石)があり、それを円形に成型して「冢」としたものでした。

 今回は、発見された祭祀用器台の出土状況や、棺の埋葬場所の予測などを示します。

弥生時代には無かったとされる横穴式の埋葬方式だった可能性があります。

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周辺遺跡

 最初に、これまでの調査結果を整理します。

卑弥呼の墓・丸山古墳は、著名な弥生遺跡である林藤島遺跡と原目山墳墓群から一キロの地点にあります。周辺には、神殿跡の丸山釜山遺跡や、水田遺構の新保遺跡などがあります。

魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の表現として、「大作冢 徑百餘歩」とあります。

丸山古墳は、直径約100メートルですので、大きさは完全に一致しています。また、内部に岩石がある小山を成型して造られたお墓ですので、「冢」という表現にも一致しています。

 現状は、頂上部に1954年に造られた水道貯水池があり、南側の踊り場のような場所に神社があります。

 この水道貯水池を建造した際に、邪馬台国時代の祭祀用器台が発見されています。しかし、正式な発掘調査は行われないままに、現在に至っています。

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丸山古墳の情報

 発掘調査に当たって、まず押さえておかなければならないのは、既に発見されている祭祀用器台です。頂上部のどの位置の、どれくらいの深さから見つかったのかが分からなければ、試掘を行う方向性が見つかりません。しかし残念ながら、現時点では何の資料もありません。

 1954年に行われた水道貯水池工事の詳細を知るために、福井市企業局の水道事業部へ問い合わせたのですが、残念ながら何の回答も得られませんでした。いずれ正式に発掘許可が下りた際には、堂々と資料を閲覧させてもらいます。

 今回は、分かっているだけの資料から推測します。丸山古墳が記述されている「福井市史 資料編1 考古」という書籍からの引用です。まず、遺跡の概要です。

 「土器の年代観および出土場所から弥生時代後期または古墳時代初頭に造営された墳墓である可能性が強い。しかし、工事用に測量された図面から墳丘を推測すると円墳または前方後円墳であったとも考えられるため、丸山古墳と命名されている。」

 とあります。時代はまさに邪馬台国の頃に造営され、形状については、私の推測と同じで、前方後円墳の可能性も指摘しています。

 次に、丸山古墳の標高図です。

形状は邪馬台国時代から1800年も経過していますので、土砂の流出などによってイビツになっています。前方後円墳であったとすれば、当時は北東部に斜面に盛り土があって、このような綺麗な円形となっており、南方向は小さな正方形になっていたと考えられます。

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竪穴では破壊

 この図面は、水道貯水池の工事用に作成された平面図、および断面図です。

頂上部に焦点を絞った図面で、標高45メートルから標高55メートルまでの、頂上部を拡大したものです。

貯水池は、20メートル四方程度ですので、頂上から3メートルを掘削して、さらに貯水池に必要な深さまで掘り進めたものとみられます。

 その深さがどれくらいか、また、この施設の基礎の厚みはどれくらいか、と言う点が不明ですが、頂上部から10メートル程度掘削したのではないかと推測します。

 そうすると、頂上部はほとんどが掘り起こされた事になります。

仮に、卑弥呼の棺が頂上部において竪穴式で作られていた場合、残念ながらこの工事によって破壊されてしまった可能性があります。

 手元の資料では、祭祀用器台のみの記述があり、その他の出土品については触れられていません。昭和29年という、古代遺跡に関心が薄かった時代ですので、乱雑に工事が行われ、破壊されて、すでに消失してしまったかも知れません。

 ただし、可能性はまだまだ残っています。

それは、棺の埋葬方式が竪穴式とは限らないからです。

横穴式の埋葬方法も検討する必要があると考えます。

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埋葬方式

 古代のお墓の埋葬方式は、大きく分けて二つあります。竪穴式と横穴式です。

竪穴式は、墳丘墓の頂上部分から垂直方向に穴を掘って、その底に棺を据え付けて埋め戻したものです。単純に上から土を被せてしまいますので、埋葬施設内に人が活動するような空間はなく、構造的に追葬はできません。被葬者ごとに穴を掘らなければなりません。弥生時代の棺の埋葬は、オーソドックスな竪穴式が一般的です。この方式は、古墳時代中期まで一般的でした。

 一方、横穴式は、お墓の進化系です。墳丘の横から穴をあけ、棺を差し込むように埋葬します。埋葬施設内に人が活動するような空間が出来ると同時に、追葬が可能になります。横穴式は、竪穴式よりもかなり後の、古墳時代中期から見られるようになります。

 私は、卑弥呼の墓・丸山古墳が横穴式だったという可能性を提唱します。

邪馬台国時代は弥生時代末期ですので、竪穴式が常識で、これを否定するのはキチガイ沙汰です。 しかしながら私は、邪馬台国・越前説を唱えて、散々キチガイ呼ばわりされていますので、キチガイついでにここでも大胆な仮説を立てます。この仮説の根拠は、近畿地方における横穴式が出現した天皇陵です。

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横穴の根拠1

 数多くの天皇陵の中で、最初に横穴式が始まった陵墓は、どこかご存知ですか?

 それは。大阪府高槻市の今城塚古墳です。今城塚古墳の被葬者はどの天皇だかご存知ですか?

それは第26代継体天皇です。継体天皇は、どこの出身だかご存知ですか?

それは、北陸地方の越前です。越前のどの地域かご存知ですか?高椋という場所です。

これは卑弥呼の墓・丸山古墳のすぐ近くです。北北東方向へ3キロ離れた場所です。

 回りくどくなりましたが、何が言いたいかというと、越前の墳丘墓の形式は、近畿地方に先駆けて進化していた、という事です。横穴式埋葬方式が、古代から越前エリアでは一般的で、その方法が六世紀に継体天皇と共に、近畿地方へ伝播したという仮説です。

 継体天皇と女王・卑弥呼とは、250年の時代差がありますが、同じ地域の風俗習慣は、受け継がれるものですので、検討する価値は大いにあると考えます。

 この横穴式埋葬方式には、丸山古墳の形状からも根拠があります。

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横穴の推測

 この図面は、先ほど引用した「福井市史 資料編1 考古」に掲載されていた丸山古墳の標高図です。頂上部に祭祀用器台が出土した水道貯水池があり、南側に50メートル離れた場所に神社があり、標高が10メートルほど低くなっています。ここで注目すべきは、神社のある踊り場のような場所です。

 以前に考察しましたように、頂上部には歴史的に何の建造物もなく、この踊り場だけが活用されていたようです。しかも、真南に向かって突き出すような形状をしています。

 これは、あえてこの形状にしたように思えます。卑弥呼は、日の巫女、つまり、太陽を司るシャーマンであるとする説があります。太陽が最も高くなる南の方角に向かって、踊り場を造り、神事や祭事を執り行ったのではないでしょうか。

 すると、卑弥呼が無くなったあとで棺を埋葬する際には、この踊り場から中央部に向けて横穴を掘り、そこに棺を差し込んだと推測します。現在、神社から頂上への貯水池へ向かう獣道が存在していますが、まさにその場所に棺を差し込んだ横穴があるのです。

 もし、卑弥呼の墓発掘プロジェクトが実行に移った場合、私はこの横穴式埋葬方法を主張して、この周辺からの試掘を要請します。

 現実的な話ですが、この場合、頂上にある貯水池を移転する必要もなく、現状のままで試掘が行われることになります。

 なお、横穴の場合、どの程度の深さで、どの程度の長さで棺が埋葬されたかは全く分かりません。試掘を始める前に、古墳の内部透視が出来れば最高です。以前の動画で紹介しました、素粒子ミュオンによる古墳の内部透視を予め行っておけば、かなりの確率で、卑弥呼の棺にまで到達できると見込んでいます。

 少し飛躍したファンタジーとなってしまいましたが、私は真面目です。飛躍ついでに、もう一つファンタジーを語ります。丸山古墳の踊り場が、卑弥呼が神事を行った場所とすれば、それは日本神話の天岩戸が起こった舞台と考えられます。つまり、天照大御神は卑弥呼のモデルであり、丸山古墳の横穴が開けられた場所こそが天岩戸という事になります。

 次回は、卑弥呼の墓・丸山古墳から出土した祭祀用器台について考察します。