古代の金融センター 玉造遺跡

 古代出雲で有名なのは、出雲大社と並んで出雲玉造ではないでしょうか。

現代の出雲観光のコースは、必ずと言っていいほど「出雲大社と玉造りの旅」と銘打っています。「出雲大社=神代の昔」というイメージが先行して、玉造遺跡もまた神代の昔からあったような錯覚に陥ってしまいます。ところが、出雲の玉造りは、古墳時代中期から後期に掛けてが最盛期です。

 当時の時代背景から、出雲が中継貿易地としての金融センターだったのでは? という役割が見えてきます。

 今回は、出雲に玉造が集中した理由について考察して行きます。

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出雲だけの玉造

 古代日本における玉造りの歴史は、縄文時代にまで遡ります。高志の国・糸魚川の角地遺跡(おがくちいせき)では、7000年前の翡翠の敲石(こうせき)が発見されており、これは世界で最も古い玉造り遺跡です。

 その後、弥生時代には邪馬台国・高志の国の各地に玉造工房が出現します。高志の国以外では、投馬国・丹後半島の奈具岡遺跡が有名です。

 古墳時代に入ると、日本全国各地に玉造工房が広がりました。特に多かったのは、近畿地方と出雲の国です。

 ところが、六世紀初頭になると全国の工房は姿を消し、出雲の国だけで玉造りが行われるようになりました。丁度、高志の大王・継体天皇が即位した時期と重なります。

 この理由を明確に説明した学者は無く、興味も無いようです。単に、「出雲王国が隆盛を極めていた」程度にしか認識されていません。

 そこで今回、一つの説を提唱します。

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出雲は中継貿易地

 まず、古墳時代に出雲の国が、中継貿易地として重要な役割だったという事です。前回の動画で考察しました通り、高志の国による植民地支配が終わった後、中国・朝鮮からの文物の交易の中継地点となりました。

 出雲大社の壮大な木造建築物は、航行する船の為の灯台や、陸地から海の様子を監視する物見台の役割を果たしていました。

 出雲の国は、現代における香港やシンガポールのような存在だったという事です。国としては小さいながらも、物流や金融の重要拠点として、大いに繁栄している姿が重なって見えます。

 通貨の無かった古墳時代の日本において、管玉や勾玉などの宝石類が通貨の役割を果たしていたと考えれば自然でしょう。

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出雲は高志の子分

 次に、高志の大王・継体天皇の意図です。

 古墳時代後期の6世紀には、邪馬台国・高志の国から男大迹王(のちの継体天皇)が、近畿地方を侵略して、征服しました。

 これは、近畿地方の大革命の時代です。巨大古墳の造成に現を抜かしていた後進国・近畿地方に、ようやく大陸の先進文明が入ってきたのです。

鉄や紙、漆、造船、建築などの様々な最先端技術が、続々と流入しました。これらの先進文明は、出雲の国を中継貿易地として越前に入り、そして近畿へと伝来した可能性があります。

 そして、継体天皇は、近畿地方での玉造りを一切禁止して、出雲の国だけにその権限を与えたのではないでしょうか。

 宝石類は、当時の通貨としての役割でしたので、好きな場所で好きなだけ作られては、大混乱します。現代で例えれば、偽造通貨が出回れば、経済が大混乱してしまうのと同じ理屈です。

 通貨としての宝石類の一元化を、中国大陸との中継貿易地だった出雲に集中させ、金融センターとしての役割を担わせたのです。

 継体天皇にとっては、近畿地方という征服したばかりの地域に重要な玉造りをさせるよりも、出雲という子分のような存在に任せる方が、安心感もあったのでしょう。

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出雲玉造遺跡

 実際に玉造が行われていた場所を示します

 この地図は、出雲平野を中心とする地域です。

  松江市近郊に、「玉造遺跡」があります。美肌で有名な「玉造温泉」のすぐ近くです。 この地には、玉造職人の集落が50カ所近くもあったといわれています。中でも玉造温泉街周辺では工房跡や遺物が数多く発見されており、国の史跡に指定されています。

 ここの玉造りの技術や製法は「高志の技術と同一」といわれています。元々、玉造は高志の糸魚川から始まりましたし、出雲は高志の国の植民地でしたので、当然の事でしょう。 また、継体天皇の時代に、玉造が出雲に一元化された事からも、高志の国と出雲の国の深い繋がりを感じます。

 出雲の玉造りの特徴としては、良質な瑪瑙の産地である事から、主に様々な色の瑪瑙原石を加工した玉造りが行われていました。また、出雲大社からは、糸魚川産の翡翠の勾玉が出土している事から、翡翠加工もされていたようです。

 出雲の玉造りは、古墳時代から平安時代まで続いたと言われています。

 その中で、高志の国・糸魚川産の翡翠硬玉だけは、飛鳥時代に姿を消しました。

 そして、昭和初期まで糸魚川から翡翠が産出する事も忘れ去られました。

 以前の動画で考察しました通り、邪馬台国・高志の国が歴史から抹消され、同時に高志の翡翠も忘れ去られたのは、蘇我氏と藤原氏の対立だったと見られます。

 それに対して、出雲の国は、高志という超大国の為の中継貿易地であったにも関わらず、古代史の主役として、現代にも語り継がれています。

 歴史は残酷なものですね。