庄内式土器 弥生時代の最先端技術?

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの13回目。今回からは、奈良盆地を離れて周辺地域の弥生時代を考察して行きます。まずは、河内平野です。この地は、日本最大の大仙古墳に見られるように、古墳時代の中心地だった事は疑うべくもありません。また、その前の弥生時代にも近畿地方の中心は、この地でした。弥生土器の中で最も有名な「庄内式土器」が生産されていた事実からも、その様子が窺えます。

 近畿地方の古代史を考える上では、どうしても奈良盆地が主役になってしまいます。それは、飛鳥時代以降に日本の中心がこの地だった事によります。飛鳥時代は、古事記や日本書紀の編纂が始まった時期です。当然のように舞台の中心、すなわちヤマト王権の中心は奈良盆地に設定されています。 神代の昔に、初代・神武天皇が橿原の地に都を開き、8世紀に平城京へ遷都するまではずっと、奈良盆地南東部エリアが、ヤマト王権の中心地だったという事になっています。 こういう文献史学上の固定観念が、ほとんどの日本人の脳みそに刷り込まれているのではないでしょうか? もちろん私もそうでした。

 けれども奈良盆地中心主義では、大阪府の上町台地に存在する大仙古墳の説明が付かなくなりますよね? 日本一巨大な大仙古墳を含む百舌鳥古墳群は、河内平野の南西部に位置しており、飛鳥の地からは遠く離れた場所にあります。

 この一点だけを見ても、5世紀以前の近畿地方の中心は、奈良盆地ではなく、河内平野だっという推論が成り立ちますよね?

また古墳時代に限らず、その前の弥生時代も、河内平野の方が奈良盆地を上回っていた物的証拠、すなわち考古学的な証拠がいっぱいあります。

 今回は、そんな河内平野の弥生時代について、土器の視点から考察して行きましょう。

 近畿地方の弥生時代には、そもそも大した出土品はありません。鉄器の出土が極端に少ないのは有名ですが、青銅鏡もほとんど出土していません。また、日本海沿岸各地や北部九州で見つかっている翡翠・碧玉・瑪瑙・ガラス玉といった宝石類の出土もほとんどありません。つまり権力者が存在していたならば必ず持っている筈の「威信財」の出土が無いのです。

三角縁神獣鏡があるじゃないか? とおっしゃるかも知れませんが、あれは4世紀・古墳時代のものですので、弥生時代ではありません。

 また、ひと昔前までは、近畿地方を銅鐸文化圏という括りにするのが流行っていました。たしかに、銅鐸の出土が多いという事実はあります。ところがこの用途は、権力者が祭祀などの行事に使ったものではない事が明確になっています。銅鐸は、水田を開拓開墾するための実用的な道具であり、権力者が持つ威信財ではありません。もはや銅鐸で近畿地方の弥生時代を論ずる研究者はいなくなってしまいました。銅鐸に関する詳細につきましては、また別の機会に述べる事にします。

 このように、弥生時代の出土品が非常にショボい地域ですので、どうして

も一般庶民が使っていた「土器」へと着目せざるを得ないのが近畿地方の弥生時代です。

 では、近畿地方の弥生土器ではどのようなものがあったのでしょうか?

最も有名なのは、庄内式土器ですね? 弥生時代末期、すなわち邪馬台国の時代と一致する土器です。この庄内式土器は、まさに今回の主題である河内平野から誕生しているのです。

 庄内式土器の概要を述べて行きます。

庄内式土器は、昭和9年(1934年)に、大阪府豊中市の庄内小学校の校舎建設の際に見つかった事から、この名称が付けられました。山形県の庄内平野とは無関係です。

 この土器の特徴は、弥生土器と古墳時代の土器との中間のような個性を持っている事です。形状、胎土の成分、製作方法などに中間的な要素があります。

 弥生時代後期までの近畿地方の土器は、進化の度合いによって大きくⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ期、Ⅳ期と分けられていましたが、それらとの最も大きな違いは製作方法にありました。タタキ、ケズリ、と呼ばれる工法です。

 まず粘土で土器の形を作った後に、外側から細かい刻み目のついた板で叩きながら形を整えたり(タタキ)、内側を可能な限り薄く削ってあったり(ケズリ)して、薄くて頑丈に作られていたのです。こうする事によって、炎の上で長い時間かけても壊れることはなくなります。コメの炊飯には最適ですね? 一回や二回の煮炊きではなく、毎日なんども炎に晒される訳ですから、旧式の弥生土器ではすぐに壊れてしまいましたが、庄内式土器はその点の改善が進んだという事です。庄内式は、米が主食となったからこそ進化した土器だと言えるのです。

 なおこの他にも、焼成温度が高温になった事も上げられます。古墳時代から見られる土師器と呼ばれる素焼きの土器に近い温度で焼き上げられていました。ご存じのように、素焼き ⇒ 陶器 ⇒ 磁器へと、高温で焼き上げる器ほど丈夫で水分の浸透がなくなります。古代においても、縄文土器から弥生土器へは焼成温度が高くなって、丈夫になっていました。庄内式土器は、さらに高温で焼き上げて、さらに丈夫になったという事です。

 庄内式土器に使われている粘土、一般には胎土と呼ばれていますが、これは生駒山地の西側の土が使われている事が分かっています。まさに河内平野に面した地域です。これはつまり、弥生時代末期に河内平野にて製造が始まった事を意味しています。そして、ここを中心とした近畿地方各地から、この土器の出土が確認されています。

 このように庄内式土器の出現と広がりから、当時の近畿地方の中心地は奈良盆地ではなく、河内平野だったという推測がなされます。

 もちろん、河内平野は中心地ではなく、土器の製造工場に過ぎなかった、中心地はあくまでも奈良盆地だった、という意見もあるでしょう。しかし、古代の近畿地方には河内湖と奈良湖という二つの巨大な淡水湖があり、河内湖の方が先に湖水が引いた事実を鑑みれば、河内平野に軍配が上がります。水田適地・稲作農業という視点からも、河内平野の方が断然優位です。近畿地方で最初に人口爆発が起こり、最初に中心地となったのは河内平野とみて間違いありません。

 なお、当然ですが奈良盆地への伝播もありました。纏向遺跡が弥生時代末期の遺跡であるとの時代推定は、旧来型の弥生土器に混ざってこの庄内式土器も出土している事が、一つの根拠になっています。

 庄内式土器の広がりについては、九州・博多湾の邪馬台国時代の遺跡、西新町・藤崎遺跡からも出土している。と、以前は主張されていました。この遺跡は、土器類のほか鉄剣や青銅器、さらには翡翠製勾玉や碧玉製管玉も出土しており、弥生時代の博多湾における最大の貿易港だったとされる場所です。

 北部九州から近畿地方の土器が発見されたのは、邪馬台国畿内説支持者にとっては朗報でした。つまり邪馬台国の時代に近畿地方の勢力が北部九州にまで及んでいた、との根拠になったからです。しかし現在、これは脆くも崩れ去りました。

理由は単純です。最新鋭の弥生土器とされていた庄内式土器の発祥の地は、実は近畿地方ではない、というのが現在の常識になったからです。

 要はこういう事です。

つい近年までは、考古学会では近畿中心主義がはびこり、弥生土器についても近畿地方で発明されたものが周辺諸国へ広がった。という考え方が一般的でした。その為に、北部九州で発見されたタタキ目のある薄手の土器は、庄内式土器である、という短絡的な推測がなされていたのです。

 近年になって周辺諸国、特に日本海沿岸地域から出土する土器類が、庄内式よりも一足先に先進的な製法が用いられていた事が分かってきました。月影式や原目山式を筆頭とする北陸地方の土器や、山陰地方から出土する土器がそれに当たります。つまり、庄内式土器は近畿地方から周辺に広がったのではなく、日本海地域から伝播した技術によって、河内平野で生産が始まったという事なのです。当たり前と言えば当たり前な事ですね?

 それは、弥生時代の出土品の質から見ても、近畿地方よりも日本海側の遺物の方が、遥かに優れているからです。豊富な鉄器類をはじめ、翡翠・瑪瑙・碧玉・ガラス玉などの強力な王族しか持つ事の出来ない威信財は、近畿地方ではほとんど無いのに対して、越前・丹後をはじめとする日本海側では、北部九州をも凌駕する出土量があるのです。

 弥生土器についても、日本海側で発明されたものが近畿地方へ伝播して庄内式土器になったと見る方が自然です。近年にんって、それが徐々に一般に認識されるようになってきたのです。

 北部九州から出土した庄内式とされる土器についても、近畿地方からのものではなく、日本海沿岸地域から伝播したものだったという事になります。これは単なる製作技術の伝播という推測だけでなく、そのほかの出土品の特徴からも言える事です。西新町・藤崎遺跡から出土する翡翠や碧玉の原産地は、北陸地方です。翡翠は新潟県、碧玉は石川県や福井県である事はよく知られていますよね?

 話を元に戻します。弥生時代における近畿地方の中心地は、奈良盆地なんかではなくて、河内平野だったという事が、庄内式土器から明らかに見えてきます。しかしその文化は河内平野から始まったものではなく、文明先進地域だった日本海側からの伝播でした。

 近畿地方の弥生文化は、のちの古墳時代や飛鳥時代と同じように、日本海側から琵琶湖や淀川を通して文明が伝来したものです。日本海側と比べればまだまだ後進地域ではあったものの、河内平野が主役になって近畿地方の弥生文化が花開いた、という事ですね?

 いかがでしたか?

弥生時代の年代推定は、炭素14や年輪年代推定などの技術があります。また、土器の胎土を調べる科学技術も存在します。しかしこれらを用いているのは、まだまだごく一部に過ぎません。現在でも地味な土器の編年が主体です。そんな中で庄内式土器は、近畿地方が弥生時代から先進地域だったという間違った根拠になっていました。現在でも「近畿信仰」がある学者は少なからず存在しますが、近年になってわずかながら崩壊し始めているのは、好ましい兆候ですね? ゆっくりながらも少しずつ弥生時代の真の姿が解明されていく事でしょう。