魏志倭人伝は正しい⑬

 魏志倭人伝に記されている邪馬台国への行路では、九州島に上陸した後の方角には明らかな誤りがあります。それは末蘆国~伊都国、伊都国~奴国への方角が「東南」となっている事です。前回はこの理由について様々な説がある事を示しました。これらはあまりにも荒唐無稽で説得力がありません。今回は、私の説をご紹介します。魏の使者たちが邪馬台国まで行っていない理由と同じで、九州の上陸地点が末蘆国だった事を根拠としています。

正しい1310
方角ずれの根拠

 魏志倭人伝の記述で、行路の方角に誤りがありますので、まずこれを示します。

九州島に上陸してから後の行程です。

一大国(壱岐)から末蘆国に上陸します。そして、東南方向へ500里で伊都国に到着します。実際には北東方向へ進んでいますので、この時点から90度の誤りが生じています。さらに東南方向へ100里で奴国に至ります。ここでもまた北東方向へ進んでいますので、90度の誤りが生じています。この理由を解く為の様々な説が唱えられており、前回の動画で幾つか紹介しました。

 ・魏志倭人伝の著者である陳寿が書き間違えた

 ・日本列島の地図が90度ずれていた

 ・対馬海流で流されて、ずれてしまった

 ・夏だったので日の出の位置が北へずれていた

 ・魏の戦略上、90度ずらす必要があった

 ・当時の九州の方角認識が90度ずれていた

などという、あまりにも説得力が無い説しかありません。ではどうして魏志倭人伝の記述は90度の誤りがあるのでしょうか? 実際にこの誤りを正さずに記述通りに辿ったならば、九州島の中でさえ大きな矛盾が生じてしまいます。何らかの根拠を示さなければならないでしょう。

正しい1320
末蘆国

 魏志倭人伝におけるこの方角の誤りは、九州の上陸地点が末蘆国だった事と強い結びつきがあると考えます。

 これは以前の動画「なぜ魏の使者は邪馬台国へ行けなかった?」にて示しました内容とほぼ同じ理由です。魏の使者たちを特別扱いせずに、あえて不便な辺境地の末蘆国に上陸させて、日本列島の情報を決して洩らさなかった。もちろん邪馬台国へも行かせなかった。という事です。

同じように、方角についても魏の使者たちが分からなくなるようにしたのだと思います。

正しい1330
日本上陸後の困難

 イメージとしては、魏の使者たちは、女王国の水先案内人によって一大国(壱岐)から末蘆国(伊万里)に上陸させられます。この先、入国管理局のある伊都国までは500里もの長い距離を、陸地を歩いて移動しなければなりません。その行程には背振山地という険しい山々があり、獣道を越えて行かなければなりません。

 当然ながら測量器具のような余計な荷物は置いて行かなければならず、あるいは女王国の監視員によって強制的に取り上げられたかも知れません。乗って来た船は、そのまま伊万里の港に停泊させられていますので、全ての持ち物をそこに置いてきたのでしょう。

 その帰結として、魏の使者たちの方向感覚は、測量による正確なものではなくなります。女王国から派遣されてきた倭人の監視員たちの言う通りの方角を信用したか、あるいは、太陽が昇る方向から方角を推測していたのかも知れません。

 いずれにしても、魏からの使者たちを末蘆国という辺境の地に上陸させた時点で、方角の認識はズレてしまったでしょう。

正しい1340
末蘆国は唐津じゃない

B: ちょっと、待って?

 

A: なっ、なに?

 

B: 九州の上陸地点の末蘆国は、伊万里じゃなくて唐津の港だって言っている人の方が、多いみたいなんだけど?

 

A: 確かに唐津を上陸地点としている人達が多いですね。でもそれは、九州説に都合の良い曲解なんです。唐津にしておけば次の糸島までは東北東になりますので、魏志倭人伝の「東南」という記載とは60度くらいのずれに収まりますよね? つまり、誤魔化せるってわけです。

 

B: なるほど? でも、伊万里っていう説も、90度のずれがあると無理やり曲解しているように思えるんですけど?

 

A: これは曲解ではありません。伊万里としたのは、二つの理由があるのです。

正しい1341
唐津でない理由

A: 一つは距離的なものです。

それは、狗邪韓國~対海国、対海国~一大国、一大国~末蘆国までが、すべて1000里と記載されていますので、伊万里あたりがピッタリ適合します。ところが唐津ではその半分ほどの距離しかありません。それに、末蘆国~伊都国までは500里となっていますが、唐津から糸島までは、せいぜい200里程度しかありません。倭人伝に記された距離が正確でないとしても、これではあまりにも酷すぎます。

 

B: 確かに。

正しい1342
唐津じゃ浅はか

A: もう一つは、女王国の防衛上の理由です。唐津と糸島とは、陸路では背振山地で隔てられていますが、海に目を転じると、同じ湾の中に位置しています。これでは魏の使者を唐津に上陸させる意味がなくなります。

 

B: えっ? どうしてですか?

 

A: 唐津湾に入港するという事は、糸島湾の状態は丸見えって事です。防衛上の理由から伊都国や奴国へは上陸させないのに、唐津に入港させてしまっては、伊都国の海岸線の情報が筒抜けになってしまいますので、意味が全く無くなってしまうのです。

 

B: そっかー? 唐津と糸島とは船で行けば目と鼻の先ですものねー? 魏志倭人伝でも「陸行」ってなってるから、唐津じゃおかしいですね?

 

A: その通りです。魏の使者たちは伊万里に上陸させられて、そこに測量器具を残して陸地を歩かされたわけです。背振山地を越えて伊都国に着いた時には、方向感覚が分からなくなり、東南方向へ歩いてきたと思わされたのでしょう。

 

B: なるほどー。つまり、魏志倭人伝の距離と、女王国の防衛っていう、二つの根拠があるわけですね?

それに比べたら、唐津に上陸っていうのは、あまりにも浅はかですねぇ?

 

A: そうよ。

正しい1350
測量機具の残置

 話を元に戻します。

このように、魏志倭人伝の中で方角に誤りがあるのは、魏の使者たちが末蘆国・伊万里に上陸させられたことによります。もし女王国が魏の使者たちを特別扱いしていたならば、日本列島の上陸地点は、入国管理局の伊都国であってもいいし、九州最大の奴国であってもいいし、そんな面倒な事をせずに邪馬台国へ直接やってきてもよかったはずです。

 それをさせずに辺境の地である末蘆国に上陸させる事によって、魏の使者たちは持ってきた測量器具が運べなくなり、方向感覚が狂わされ、90度ものズレが生じてしまったのです。

 それは、倭国の監視員たちの言う方角を信用したからかも知れないし、朝日が昇る方向から自分たちで推測したからかも知れないし、あるいは、古地図にあるように日本列島が実際よりも90度ズレているという先入観があったからかも知れません。いずれにしても、魏志倭人伝の方角は、末蘆国から明かな誤りが始まっていますので、ここから推測するのが妥当だと考えます。

正しい1360
不弥国は宗像

 魏志倭人伝における奴国までの方角の誤りは、時計方向に90度でしたので、これをその後の行程にも当てはめます。

 奴国から次の不弥国への行路の方角は「東」と記されていますので、実際には北の方角となります。すると、宗像あたりがその地になります。ここは古代海人族の拠点ですので、次の行程が水行20日である事との整合性もとれるようになります。

正しい1380
邪馬台国は越前

 そして不弥国の次の投馬国への方角は「南」と記されていますが、実際には東の方角となります。この方角へ20日間の水行ですので、但馬・丹後あたりがその地となります。さらに邪馬台国への方角も「南」と記されていますので、実際には東の方角となります。すると最終目的地の邪馬台国は、越前となります。

 魏の使者たちは、おそらく伊都国あたりに逗留させられ、女王国の防衛上、ほかの地域への移動は禁じられていたのでしょう。伊都国で倭人たちから邪馬台国までの行路を聞き出して、魏志倭人伝の元になる資料にしたと考えられます。また、倭人たちからの行路の情報は、全くデタラメではなく、90度の修正さえすれば、きっちりと理に適う邪馬台国までの行路が描けることが分かります。このように筋道立てて考察すれば、邪馬台国の場所は、九州でも近畿でもない事は明らかです。