不思議な形 吉備の祭祀用器台

 こんにちは、八俣遠呂智です。

山陽道・四国シリーズの6回目。今回は、岡山県、吉備の国を、考古学的な視点から考察します。

この地はいわずと知れた「特殊器台」が多く見つかっていることで有名ですね? それだけでなく、出雲の国からの文化流入を匂わす遺跡も数多く存在しています。

弥生時代に中国山地を越えて、何らかの強力な王族がこの地に出現していた事は、間違いないでしょう。

 「吉備の国」と呼ばれるのは、備前・備中・美作という岡山県全域と、備後の広島県東部です。

古代における山陽道の中心で、弥生時代から古墳時代に掛けての遺跡や出土品が多い事で有名です。

分布としてはやはり、天然の水田適地周辺に多く、備中の総社盆地、美作の津山盆地、備後の三次盆地、などがあります。中でも、特殊器台や大型の墳丘墓など、個性的な弥生遺跡がある総社盆地周辺地域が顕著です。

 吉備の国の弥生遺跡について、まず津山盆地から入ります。ここは前回の動画でも示しました通り、山間部にある淡水湖跡の沖積平野なので、水田適地です。これは江戸時代の石高にもその面影が残っており、津山盆地を含む面積の狭い美作の国が、備前・備中・備後と肩を並べる石高があった事からも分かります。

 弥生時代においても大きな勢力があったと見られ、沼遺跡という拠点集落跡があり、水田遺構や竪穴式住居跡・土器類などが出土しています。残念ながら、王族の存在を示す威信財の出土はありませんが、古代からこの地が大きな農業生産があった事を伺わせます。なお現在では、「沼弥生住居跡」という公園として、津山市によってよく整備されています。

 またこの地では、最古級の四隅突出型墳丘墓も見つかっています。これは山陰地方や北陸地方という日本海側に多く見られる弥生時代の墳丘墓で、後の古墳時代の大型のお墓が出現する先駆けとなったものです。

 吉備の国では、備後の国・三次盆地でも多く見つかっており、このエリア全体で10基以上も発見されています。

 地理的に津山盆地と三次盆地は、中国山地の中にある盆地ですし、天然の水田適地。気候も冬場の降雪が多いという日本海性の気候。など、山陰地方との共通点が多いのが特徴です。現代では岡山県や広島県に属している地域ではありますが、吉備の国という文化圏で括るよりもむしろ、出雲文化圏とみる方が正しいと言えるでしょう。

 吉備の国で最も注目すべき考古学的史料は、特殊器台・特殊壺です。

2世紀頃の弥生時代後期の墳丘墓から出土する土器で、華麗な文様を施して、装飾性に富んだ筒型・壺型をしています。その土地の首長の埋葬・祭祀に使用されたとみられ、一般の集落遺跡からは全く出土せず、王族の墳丘墓からだけしか見つからないという、まさに「祭祀用器台」です。

 また、この地で発達した特殊土器類が変遷して、古墳時代の近畿地方に見られる円筒埴輪の発生や成立に関係したのではないか?とも考えられています。

 特殊器台の基本形は筒形で、アルファベットの「I」字のように、上・下端が大きく外側に拡がっています。上端部の縦幅が15センチメートルに達するものもあります。下端部も器台を支えるに十分なような台形をしています。

 高さは80センチから110センチに達するものまであり、普通の器台がせいぜい40センチメートルほどであるのに比べ、とても大きなものです。筒部の径も大きいものでは40センチを超すものもあります。

 筒部には、様々な文様が描かれています。ヘラによって描かれた沈線文様帯や、文様のない横書きの沈線文間帯などです。

 なお、当時としては一般的な事ですが器台全体に、朱丹が塗られています。

この特殊器台が見つかっているのは、主に総社盆地周辺です。

 特に、双方中円形墳丘墓で有名な倉敷市の楯築遺跡からの出土が注目されていますが、そのほかにも、総社市の立坂(たちざか)遺跡や、出雲に近い北部にある真庭市(まにわし)の中山遺跡、などからも出土があります。

 これらのように、吉備の国の考古学史料は個性的なのですが、残念な点があります。それは威信財の出土がとても少ないのです。金属類では、鉄器類は10数点、青銅鏡は数枚に留まり、宝石類では翡翠・碧玉・ガラス玉とも、ほんの僅かしか出土していません。

 鉄にだけ注目してみると、日本海側の出雲地域の影響を強く感じます。意外かも知れませんが、弥生時代の出雲平野においても鉄器の出土はほとんどありません。日本海側で鉄の出土が多いのは、丹後や越前などのもっと東の地域です。

 出雲にしても吉備の国にしても、たたら製鉄という鉄器文化がありますので、古代を通してそうだったと思いがちです。しかし、弥生時代には決してそうではありませんでした。これらの地域に製鉄文化が芽生えるのは、六世紀以降の古墳時代になってからです。

 また弥生時代の鉄器出土の多い北部九州との交流も少なかったのでしょう。それは瀬戸内海という困難な海によって遮断されていたからです。

 吉備の国の考古学的史料を見て行くと、出雲文化の影響を非常に強く感じられます。特殊器台こそ出雲にはありませんが中間地点の中山遺跡からは多く出土していますし、生活用の土器類では相互に交流があった事が確かめられています。

また、四隅突出型墳丘墓は三次盆地や津山盆地から。そしてその亜流とも言える楯築遺跡の双方中円形墳丘墓の存在。さらには鉄器の出土数の少なさ、など出雲地方との共通点が多く見られます。

 どうやら、中国山地にある三次盆地や津山盆地は、出雲と吉備との架け橋のような役割を果たしていたのでしょう。

 いかがでしたか?

吉備の国はとても個性的ですね? 日本海側からの文化の伝播によって、この地に新たな文明圏が発生したのでしょう。

ちなみに歴史学会の常識は、「北部九州の文化が瀬戸内海を渡って吉備の国に伝わった」、となっています。私は、これには到底納得できません。それは、吉備の国に至るまでの地域が、弥生遺跡の空白地帯になっているからです。

歴史学の専門家は、とかく瀬戸内海信仰が強くて、海洋学や古代の造船技術などは、全く理解していないのですね?